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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第三章 長篠の戦い
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長篠の戦い(八)

「武田信玄諸戦録」第二章「鉄炮と老将-三」のエピソードを交えています。横田備中守、四半世紀ぶりの登場(回想)

 勝頼は、自らがここまではっきりと宣言した以上、如何に一門譜代の人々とはいえ、みな自分の下知に従うであろうと考え、一座を見渡した。見渡した勝頼は、口にも表情にも出さなかったが、この場にいる重臣達の大半が、父の三回忌法要の時に示した死相を、再び湛えている様子を見て密かに動揺した。勝頼はそれを、目の錯覚かなにかと強いて考えるようにした。決戦を前に凶兆と思われたからであった。

「一同大儀であった」

 勝頼がそう言って軍議を終えようとしたとき、

「よろしゅうございますか」

 と、発言を求めた者がいる。

 誰かと思えば山県三郎兵衛尉昌景であった。

「昌景、なにか」

 勝頼は彼を睨めつけながらも発言を許した。

 勝頼は二連木城郊外で家康を取り逃がした昌景を未だ許してはいなかった。昌景もそのことを気付いており、特に長篠城攻城戦に入ってからは軍議の席で発言を求めるということがなくなっていた。その昌景が久々に発言を求めたのである。

 昌景はくだんの死相を浮かべながら静かに話し始めた。

「少し長くなるやもしれませんが聞いて下され。それがし飯冨源四郎と名乗る小身の頃、斯くの如き短身痩躯、非力ゆえに鑓働きを期待されることなく、御先代近習として取り立てられはしたものの、吏僚として詰まらぬ生涯を終えるはずでした。されど侍として生まれた身、どうしていくさで手柄を上げずにおられようかと一念発起して、横田備中守高松(たかとし)殿に鑓働きの心構えについてご教示を賜ったことがございます」

 昌景は遠い昔を思い出しながら言った。

 あれは確か、晴信近習として横田高松に鉄炮の射撃を実演して見せたときのことだった。弓の名手として知られた高松は、晴信が

「これからは鉄炮の時代だ」 

 と言った言葉にへそを曲げて府第をあとにした。源四郎はその高松に追いすがり、いくさ場における心構えについて教えを請うたものだった。

「横田備中殿は、不条理ないくさに駆り出されるのは武士の定めであり、たとえそのような立場に身をやつしたとしても、日頃の鍛錬を欠かさなければ陣立てが俄に崩れ立つものでもなく、死闘する姿は、そのようないくさを命じたあるじに対する諫言ともなろうと仰せになりました」

 横田備中はその言葉どおり、大敗の軍中、殿軍を買って出て、死闘する後ろ姿で無謀な戦いを仕掛けた晴信に諫言しながら、壮烈な戦死を遂げた。天文十九年(一五五〇)におこなわれた、所謂砥石崩れであった。

 それにしても昌景が放ったこの言葉には、一同ぎょっと目を剥いた。当然のことであろう。昌景は全く剥き出しの、直截的な言い方で、勝頼の決戦指向を無謀ないくさと批判したのと同然だったからだ。満座のなかで批判を受けた勝頼の白い頬が、怒りのためにみるみる染まる。

「控えよ昌景! そなたは家運を賭したこの戦いを不条理と申すか!」

 勝頼が我を忘れて怒号する。

「左様、不条理です。不条理そのものです。御屋形様は向後、国力差が開くばかりの信長を、いまのうちに叩いておきたいと仰せでした。そのゆえは、今は兵力差が三倍で済んでいるからだと仰せでした。我等は馬場美濃守殿の策に従って山全体を城と成し、信長家康を迎え撃っても三倍の敵に攻め寄せられ、それですら勝敗の程は五分五分であるのに、陣城に籠もる三倍の敵に攻め寄せるなど、敵方に対し三分の一の兵力で城攻めを敢行するのと同じで全くの無謀。国力差は既に覆しがたい段階に入っております。かかる難敵を相手とするいくさ。不条理と申さずしてなんと申しましょう。御再考なさるべきです。どうか、御再考を」

 勝頼の大喝に対し、昌景は一気にまくし立てた。

 勝頼は先ほどのように大喝することはもうなかった。なかったが、こめかみに癇筋を立て、依然等顔を真っ赤に染めながら

「いくつになっても命は惜しいらしいな」

 と不機嫌に言い放って席を立った。

 勝頼は軍議の終了を宣しなかったが、もはやまともな軍議にもならぬことは誰の目にも明らかであり、人々は一人二人とその場を去って行った。内藤修理亮はその際、昌景の肩に手をやった。馬場美濃守は昌景に対し黙礼をした。

 昌景は、誰もいなくなったその席で、しばらくそのままの姿勢で座り尽くしていた。


 五月二十日、武田勝頼は本通寺山医王寺に布陣する優位を自ら捨て去り、長篠城の包囲を鳶ヶ巣山砦に籠もってこれを監視する河窪武田兵庫助信実以下二千名に任せ、古呂道坂を西進した。いうまでもなく連吾川右岸に布陣する徳川家康及び織田信長率いる敵野戦軍と雌雄を決するためであった。

 甲軍は北(右翼)から馬場美濃守信春、土屋右衛門尉昌続、一条信龍、真田信綱昌輝兄弟が並んで、これを穴山玄蕃頭信君が後背から押さえる布陣。

 中央の部隊は才ノ神に布陣する勝頼本陣の前衛を務める典厩信豊を最北に、続いて甲軍中最大規模、五百騎もの動員兵力を誇った小幡信龍斎及び上総介信真父子、その南に逍遙軒信綱という順に布陣する。遊撃部隊として西上野先方衆安中左近大夫景繁が配されていた。

 左翼は本戦役の主敵たる徳川家康に当たる部隊であって、特に精強の内藤修理亮昌秀、そして原隼人佑昌胤、更に駿河、遠州、三河衆約三百騎をべる山県三郎兵衛尉昌景が布陣した。加えて甘利三郎次郎信頼率いる甘利衆。更に都留国衆加藤丹後守景忠を相備あいぞなえとする小山田左兵衛尉信茂、昌景と並ぶ三百騎の将跡部大炊助勝資も配される大部隊であった。

 勝頼にとって「竹馬ノ友」と自他共に認める典厩信豊を本営の前衛に据え、左右両翼に一門譜代を均等に配置した勝頼必勝の布陣である。

 雨中に布陣した甲軍は、決戦の時を刻一刻と待ち構えていた。

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