長篠の戦い(六)
五月十八日、信長家康は設楽ヶ原極楽寺山に着陣した。
「長篠籠城衆に味方の来援を知らしめてやれ」
信長はこのように下知して、滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉の三隊を東進させた。
設楽ヶ原は、東の長篠城に近付くほど隘路となり、多数の鉄炮衆により構成された三隊の行軍は困難を極めたという。しかし織田方によるこの行動によって、寒狭川右岸に展開していた武田方は後退している。包囲陣を形成していた甲軍の一角が後退し、更に遠方とはいえ味方の旗印を目にした長篠籠城衆の安堵感は如何ばかりだっただろう。
織田徳川の諸隊は連吾川右岸に鶴翼の陣を展開し、各々が持ち寄った鋤や鍬を用いて土塁を築きはじめていた。
同じころ、極楽寺山に置かれた信長本営には、織田家諸将のみならず家康とその重臣達が招集されて軍議が開かれていた。信長は軍議に先立ち今回の作戦目標について説明した。
「余はこたびの戦によって長篠城を救うことは勿論のこと、武田を大いに叩くつもりである。武田を追い払って城を救いさえすればそれで良しとする考えは払拭してもらおう」
長篠城を救う、という発言に、家康が謝意を表して軽く頭を下げる。
「そのゆえは、我等は京畿に連戦し、天下静謐を乱す諸敵掃討に取り掛かっておる折節、東において武田が斯くの如く蠢動するたびごとに、東奔西走を余儀なくされるからである。事実、四郎勝頼が小癪にも三河に出張ってきたことによって、畿内に禍根を残すこととなってしまったことはいまいましい限りだ」
信長は、摂津において石山本願寺を屈服させることが出来なかった事実に触れて続けた。
「とりわけ我が家中の者は、武田を叩くことが天下静謐に直結することをよく理解して本戦に臨まなければならない。もし本戦において味方の名のある将が多数討たれるようなことになれば、たとえ長篠城を救い得たとしても四郎勝頼めは戦勝を喧伝し、畿内の諸敵はますます力を得て増長することであろう。蛮勇に任せて盲進するな」
「なるほど、そのための陣城構築ですか」
家康は深く納得したふうを示しながら頷いた。
「左様、そのとおりです。しかしひとつ問題がござっての」
「問題? ああ、敵が持久するのでは、ということですか」
家康はすぐ思い当たったように言った。
「さすがは家康殿だ。余の悩み所はまさにそこで、持久すれば味方の将に犠牲が出ることはないが、武田と雌雄を決するということもまた出来なくなるのだ。そこで、敵を引き摺り出すになにか良策があるというのならば、この場にて論じていただきたい」
家康に向けて言った言葉であるから丁寧な物の言い方であったが、その言葉はこの場にいる諸将全員に向けられたものでもあった。諸将は一様に難しい顔をして考え込んだ。
というのは、いま甲軍が布陣している長篠城一帯は、城のみならず地形全体が切所の体を成しているからであった。より具体的にいうと、城北の本通寺山医王寺本陣、南東の鳶ヶ巣山城塞群、そして寒狭川右岸の甲軍は、いざとなれば雁峰山の麓に展開して、城に近付こうという織田徳川を高所から攻撃できる位置に布陣していたのである。
信長はこの寒狭川右岸の甲軍を撃破しようと滝川一益等三隊を推し進めさせたものであったが、勝頼は信長の狙いを看破しこの部隊を後退させて交戦を避けている。甲軍は長篠城包囲陣を維持しつつ、切所に布陣して持久の策を採る構えであった。これを設楽ヶ原は連吾川左岸にまで引き摺り出し、いままさに織徳の兵が懸命に構築している陣城直近まで誘引して叩く良策を考えることは、実際容易ではなかった。なぜならば武田方が地形的優位を棄てて、わざわざ陣城まで出張ってくることは考えづらかったからである。
「そういえば、一帯は地形が窪んでおりましたな」
軍議の場が沈黙に包まれるなか、ひとりそう発言した者がいる。羽柴筑前守秀吉であった。本日、信長の命を受け寒狭川右岸の甲軍に接近した秀吉は、長篠籠城衆に姿を見せてこれを勇気づけた後、連吾川の線まで後退し、いまは軍議に出席していた。
「確かにそうであったな。で、それがどうかしたか」
そう問うたのは、同じく長篠城近辺まで進出した滝川一益であった。
「我等、出陣前に約十万の兵力と惑説を流しました。実際は三万そこそこですが」
秀吉は一益の問いにはこたえず、急に兵力の話を始めた。
「我が徳川の兵を合算すれば三万八千になり申す」
家康が付け加える。いずれにしても事前に流した十万人という数字には遠く及ばない。
「一帯の窪地を利用すれば、もっと少なく見せることが出来はしませんか」
そう発言した秀吉の顔に、一同の視線が集中した。
「兵力を寡少に見せて敵を誘う、か」
信長の言葉に秀吉がこたえる。
「左様でございます。おそらく勝頼の耳には我等が流した兵力にまつわる惑説が入っているでしょう。約十万という数字を武田方が信じるとは思えませんが、話半分として約五万と判断している可能性はあります。我等の実数はそれより更に少なく、加えて過半を窪地に隠してしまえば、地理的な優位性に頼らずとも力で撃砕できると判断し、陣城近くまで出張ってくるのではありませんかな」
「そう簡単にいくかな」
水野信元あたりは懐疑的である。それも無理のない話で、いまは互いに斥候を多数出して敵情を探り合っている最中であった。敵の兵数など勝敗に直結する情報は、いの一番に入手しなければならない性質のものであったから、これが敵方に察知されていないことはよほどの僥倖と呼ぶべきものである。
しかし一方で、勝頼が織田徳川軍を、思っていたより寡少だと判断している可能性も確かにあった。秀吉が言ったとおり、事前に流した兵力約十万という惑説のことである。実数を目の当たりにすれば、それだけで勝頼が「思っていたよりずっと少ない」と判断するだろうことは当然考えられることであった。
つまり窪地に兵を隠す隠さないに関わらず、現状でも勝頼が釣り出されて陣城近くまで出張ってくる可能性は十分にあるといえた。
「よろしい分かった。各隊は窪地に兵を隠し、出来るだけ寡少に見えるよう努力せよ。また、いまより以後、陣城の外に出ることはまかりならん。連吾川の線を守って固く籠もり、敵が出張ってくるまで心静かに持ち場を維持すること。以上である」
信長は一同にそう告げて軍議を終えた。
諸将が散会したあと、極楽寺山の本陣の、最も奥まったところに一人残った信長は、今回の相手が武田信玄以外の何者かであることに密かに安堵していた。佐久間信盛などは、敵将が武田勝頼だと聞いただけで士気を阻喪しつつあるようだったが、信長にとっては勝頼が相手であるということはさして重要ではなかった。信玄が相手ではない、ということこそが信長にとっての重要事であった。もし今回の相手が信玄だった場合、彼は持ち前の慎重さと粘り強さを存分に発揮して、自らの優位が確定的になるまでは地理的優位を捨て去るような愚挙に及ぶことが絶対にないだろうと考えられたからであった。
鉄の軍規を敷いて長陣に倦む将兵を恐怖によって引き締め続け、勝てるとまではいわぬ、絶対に敗北しない戦術的或いは政治的状況を作り出すまでは切所に固く閉じ籠もり、何百日にも及ぶ睨み合いにも信玄は堪えたに違いない。そうなれば本国からの補給線がより遠隔に位置し、また遠征続きの織田の将兵は甲軍に先んじて疲弊し撤退を余儀なくされただろう。これこそ信長が採られて最も嫌がる戦術であった。
しかも、撤退時には寸分のすきを見せることも許されないだろう。油断すれば信玄は、一気呵成に追撃の采配を振るうに違いないからだ。そうなれば三方ヶ原の戦域から命からがら逃げおおせた家康の轍を、今度は自分が踏むことになっていたかもしれないのだ。
信長は信玄とのいくさを考えただけで胃痛を覚えた。だがそれはすぐに収まった。
「信玄が相手ではない」
すぐそのことに思い当たったからであった。




