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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第三章 長篠の戦い
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長篠の戦い(四)

「跡部長坂両名の意見をとする」

 勝頼は単刀直入に言った。慎重論を唱える一門衆や宿老を慮って中途半端な物言いをし、自分の発言がどのようにでも受け取られることを恐れ、勝頼は敢えて直截な物の言い方を選んだのだ。勝頼の言い方も異例であったが、その意図を確かめようという穴山信君の

「そのゆえは」

 という聞き方もまた異例であった。しかし軍議の席を見渡してみれば、家督を相続して間がないとはいえ、武田家当主たる勝頼に、強い調子で物を訊ねることが出来るのが穴山玄蕃頭信君以外にないこともまた事実であった。

 勝頼は勝頼で、信君の詰問に怯むということがない。

「このたびのいくさは岡崎城に我等を手引きしようという内通者を得て起こしたものだ。そのことは先ほど跡部が申したとおりである。然るに企ては事前に露顕し計策は潰えた。岡崎城以上の手柄を得んと欲して、我等は吉田城に攻め寄せたのだ。その過程で、退路を確保するために長篠城へと攻め寄せた経緯を、一同は重々承知しておるであろう。そしてその軍議の席で余は申したな。なんと申したか、覚えておるか」

 勝頼が一座をぐるりと見渡した。目が合ったのは典厩信豊であった。信豊はこたえた。

「我等は退くために三河に出張ってきたのではない、と仰せでした」

「そのとおりだ。もしいま馬場美濃守や穴山玄蕃頭の献策どおり、長篠城を落として我等が退けば、信長もまた間違いなく撤退するであろう。皆はそうせよ、それがよいと申す。しかしそれでは撤退するために三河に出張ってきたのと同じである。そのようないくさは全くの無駄足というべきもので、到底余の容認するところではない。皆はなにゆえ余がここまで逸っているか、理解できないであろう。よろしい。これを機会に申し上げよう。我等武田は年々実入りが細っておる。早期に信長に一撃を加えなければ、近い将来我等は干戈を交えることすらなく、信長の膝下に跪くこととなろう。余は信長風情に屈するつもりは、御旗楯無に誓ってない。これが決戦を欲する所以だ」

 と明言してのけた。

 勝頼は銭金ぜにかねの話などに関わることもなく、ともすればそのような話を軽んじ蔑みながら、武辺一辺倒でここまで昇り詰めてきた譜代宿老ども或いは一門衆に、武田の財政が年々細っていることを暴露したのである。そしてそれこそが、信長との決戦を求めている理由なのだと勝頼は明言したのだ。その迫真の告白と、御旗楯無に誓って信長に屈することはないという言葉が、反駁する言葉を人々から奪い去ってしまった。

 信長との一戦を辞さぬ覚悟を、勝頼が累代の家宝に誓ったことによって軍議は決した。それは進退を論ずるものではなく、優勢な敵方に対し如何に対処するかを論ずる軍議となった。

 馬場美濃守と穴山玄蕃頭は、やはり長篠城の早期陥落を提唱した。しかしそれは既に、長篠城を落として信長を撤退させるという意味合いで唱えられたものではなかった。

「長篠城を捨て置いたまま信長の軍を迎え撃てば、腹背に敵を受けることになり不利です」

 これに対し原隼人佑昌胤などは

「しかし長篠城を落としてしまえば信長は退くでしょう。御屋形様が示された方針にもとります。如何なさるおつもりか」

 と問うと、馬場美濃守信春は

「落城を秘匿する以外ないでしょう」

 と言った。信春は続けた。

「いま、我等は医王寺に本陣を置き長篠城を攻め囲んでおりますが、この地の嶮岨は長篠城を抑えることによって完全なものとなり申す。取り急ぎ長篠城を陥落させ、それを信長に秘匿したまま御屋形様及び旗本衆を長篠城へと移し、これを御一門が北側から押さえ、我等譜代家老衆の二三手が寒狭川か宇連川かは知らぬ、川を渡り敵に当たれば、敵は攻め上るていゆえに数の有利を活かすことも能わず、優勢に戦いを進めることが出来るでしょう。敵はどう少なく見積もっても我等に倍する数ですが、畿内近国の兵ゆえに補給はままなりません。翻って我等は本国に近く補給は容易。この地にて持久すれば敵が先に退くは必定。後ろを見せた隙を見逃すことなく背後から痛撃を加えれば、敵勢に比較して寡兵の我等ではありますが勝機を見出すことも十分出来ましょう」

 と献策した。

 さすがに山本勘助の薫陶を受け、信玄と共に幾多の芝(戦場)を踏んできた馬場美濃守信春である。勝頼が示した決戦指向は無謀とも呼べるものであったが、その中でもなんとか勝機を見出そうと、今打てる最善の策を献策したものであった。歴戦の諸将はさすが馬場美濃守殿よと揃いも揃ってうなり、勝頼も良策としてこれを用いることを決した。

「そうと決まれば長篠城攻めですな」

 小山田左兵衛尉信茂の言葉に反応したのは逍遙軒信綱である。

「これも、策がござる。捕縛したくだんの間者を城の壕際まで進め、後詰は来んから降れと呼びかけさせるというのはどうだ。上手くいけば城攻めに際してこれ以上犠牲を増やさずに済むだろう」

 信綱は、間者には老母と幼子がおり、そのうちの老母は兎も角幼子の栄達を願っていること、それを果たすために織田の内情を武田に報せたことを一同に告げたあと、

「この者に加増を約束した上でもうひとはたらき課せば、きっと思いどおりに動くであろう」

 と附言し、これは皆の賛同を得た。

 信綱は早速自ら鳥居強右衛門尉(すねえもんのじょう)勝商かつあきと面談し、思いどおり城方に降伏を勧めるならば厚遇すると約束した上でその意向を確認したところ、

「分かりました。降伏した城兵の助命も併せてお願いします」

 とこたえたので、逍遙軒信綱は手ずから縄目を解き、両脇を屈強の侍に警固させて長篠城の壕際まで進めさせた。

「あれは、強右衛門尉ではないか」

「狼煙が上がってから一向に帰らぬところを見ると、斬られたものと思っておったが捕縛されたか」

 塀や櫓の狭間から、籠城兵の顔がちらりちらりと覗く。口々にそのようなことを言っているようであった。

 強右衛門尉は大きく息を吸った。城方に降伏を呼びかけるものと思われたそのときである。強右衛門尉は、勝頼の尋問を受けたときの、物静かな様子からは想像も出来ない大声で叫んだ。

「各々おのおのがた、信長公の後詰は既に岡崎城にまで押し寄せてござる。今しばらくの辛抱、これより寄せ手は城に猛攻を加えるでしょうが、心をひとつに凌ぎきって下され!」

 これには強右衛門尉の脇を固めていた警固の侍も大いに腰を抜かし、また同時に城内からは喜びの声が湧き上がったのであった。

 逍遙軒信綱は信用して自らの縄目を解いた行為を踏みにじられた心持ちもあって怒気を含みながら

「早急にあの男を捕縛して、引っ立てて参れ!」

 と命ずると、ほどなくして強右衛門尉は逍遙軒信綱の前に連行されてきた。信綱は強右衛門尉に一瞥くれると、

「城内からよく見える位置で磔刑に処すべし」

 と命令した。その命令は即座に実行に移された。

 寄せ手の甲軍も、長篠城がよく持ち堪えているのには辟易していた。もしこれ以上出血せずに城を落とすことが出来るなら喜ばしいと考えていたことから、それを裏切られた怒りは逍遙軒信綱と同じであった。

 強右衛門尉は左右の脇腹を長柄ながえによって両方向から刺し貫かれた。

 本陣に在ってことの推移を見守っていた勝頼は、強右衛門尉が信綱の策を逆手にとって城方に後詰の到来を告げ勇気づけた行為を目の当たりにして

「あれは剛直の侍だ。あれだけの侍は得難いものがある。あの者を助けよ。叔父上があの者を殺してしまう前に」

 と旗本衆の一人に命じた。勝頼は強右衛門尉を救うつもりであったが、勝頼の使者が間に合うことはなかった。強右衛門尉は磔に掛けられたまま深傷を負い、既に虫の息であった。勝頼の旗本はその姿を見上げて言った。

「児孫の栄達を捨ててまで主に忠節を尽くされた行為は賞賛に値する。今は敵味方に引き別れている身ではあるが、同じ侍として貴公の如き忠烈を目にすることができたのは望外の喜悦である。見たところ死にきれず苦しんでおられる御様子。これなる鉄炮にてとどめを刺して進ぜよう。よろしいか」

 と尋ねると、強右衛門尉は微かに頷いた。勝頼旗本は鉄炮を構え、苦しむ強右衛門尉の胸を撃ち抜いたのであった。

 一方城内でも、強右衛門尉の英雄的行為に涙する者があった。いうまでもなく城主奥平九八郎信昌であった。信昌には強右衛門尉が城の壕際に立った経緯が目に見えるようであった。心ならずも敵方に捕縛され、加増を条件に降伏を勧告するよう命じられたのであろう。しかし城方が降伏したとて、助命されるのは城兵だけで、城主たる信昌が切腹を命じられるであろうことは間違いないことであった。その意味で強右衛門尉は、信昌を救うために自らの命を擲ったのと同義であった。信昌は絶対に城を守り切ること、そして城を守り切って、幼子の将来を自分に託した強右衛門尉との約束を必ず果たすことを誓ったのであった。ここに来て長篠城は、文字どおり上下が心を一つにして、金城湯池と化したのであった。

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