長篠城攻略戦(四)
奥平九八郎信昌麾下長篠籠城衆のうち、このたびの戦役を経て、生きて帰ることが出来ると考える者はほとんどいなかった。自分たちが他の北三河の諸城のように降伏を申し出て赦免されるなどとは、誰一人として考えてはいなかった。僅かに五百程度の籠城衆である。一人ひとりの声は相対的に大きく、また前後の経緯から考えて長篠籠城衆が生き残る道理がなかったので、その声はいっそう説得力を持って他の籠城の人々に聞こえた。
悲観論を唱える者は押し並べてこう言った。
「浜松の殿様も、酷な仕置をなさるものだ」
と。
二年前の天正元年(一五七三)、山家三方衆の間で争われていた三河牛久保の領有権について、主家たる武田家の裁許を求めた奥平定能信昌父子の訴えを、武田首脳部は事実上の門前払いとした。不満を抱いた奥平父子は共に謀って武田を出奔し徳川に転じた。折から徳川と干戈を交えていた武田の陣営を混乱に陥れた挙げ句、敗戦に追い込んでいる。
これで武田首脳部が激怒しないはずがない。
事実、武田首脳部、特にこの敗戦の前後、奥平の裏切りを察知し取り調べに当たっておきながら、遂に証拠を摑むことが出来なかった土屋右衛門尉昌続の怒りは凄まじいものがあった。敗戦の責任者とされた山県昌景もまた同じであった。彼等の奥平父子に対する憤怒は勝頼のもとで一つに集約され、たとえ降伏を申し出たとしても許されることはないだろうということが容易に想像できた。
武田方の奥平一族に対する怒りは、人質として甲斐に預けられていた信昌の妻於ふう、嫡男仙千代丸に向けられた。両名は、わざわざ甲斐から奥三河鳳来寺まで護送された上で処刑された。於ふうは磔刑、仙千代丸に至っては鋸引きだったと伝えられている。
武田は敢えて信昌の目の鼻の先まで出張って、両名の処刑に及んだ。無論、その様子は信昌の耳にも届いたことであろう。奥平一族とりわけ信昌にとって武田勝頼は、不倶戴天の敵となった。
無論家康も、かかる遺恨を知って、他の何者かに対してならばいざ知らず、武田に対してだけは徹底抗戦する以外に道がない九八郎信昌を長篠城に籠めたのである。
大賀弥四郎の企てを事前に摘み取った家康にとって、甲軍が吉田城を狙うことは実は織り込み済みであった。岡崎城という大魚を取り逃がした以上、それを越える戦果を甲軍が求めるとするならば吉田城をおいて他になく、そこへ攻め寄せるに違いないと家康は踏んでいた。
果たして甲軍は吉田城に押し寄せた。
圧倒的な戦力で押し寄せた甲軍を前に、家康が採り得る策はひとつしかなかった。即ち、信長の援兵を得た上で、数に優る敵に後詰の一戦を挑み撃滅する、という策である。そのためには甲軍を、出来るだけ長期にわたって一点に釘付けにしておかなければならなかった。足助城陥落を聞いて自落を選んだような惰弱の将ではその任に堪えない。
甲軍の首脳部が指摘したように、長篠城は吉田城を攻めようという甲軍にとっては退路上に位置する目の上のたんこぶのような存在であった。これを除いて退路を確保しておかなければ、腰を据えて吉田城を攻め囲むというわけにはいかない代物であった。
甲軍にとって放置しておくことが出来ない城に、これまた甲軍にとって遺恨浅からぬ将を籠める。自国を防衛するためとはいえ、家康の狡知ここに極まれりの観すらあった。
ともあれ家康によって死地に追いやられたことを自覚しない長篠籠城衆ではない。彼我の戦力が拮抗しているというのならば仇敵相手に士気も高揚しようというものだが、斯くも圧倒的な戦力差を目の当たりにすれば、怨嗟交じりの
「浜松の殿様も、酷な仕置をなさる」
という声は、日に日に大きくなるばかりであった。
無論、降伏など論外、徹底抗戦しか道がないという立場に追い込まれたことを自覚しない九八郎信昌ではなく、二十一歳の将は健気にも、短すぎる生涯、間近に迫った死を覚悟したことであろう。
いくさはもとよりひとりでするものではない。如何に万を超える人々を采配一つで動かすことのできる将であっても、動かすべき手持ちの駒がなければいくさにもならぬ。長篠籠城衆はいざとなれば、城主を見捨ててその寝首を掻き、これを手土産として敵方に転ずるという選択肢もあった。上手くいけば加増、不忠者と不興を買っても命だけは助かる公算が高かったが、籠城衆のうちで誰もそのような挙に及ぶ者がなかったのは、この若い将が、妻子の仇を討つにはこのときをおいて他にないとばかりに降伏を拒絶し、もし善戦虚しく落城の時を迎えれば、自分の腹と引き替えに城兵の助命を願い出る覚悟を満身に湛えていたからに他ならない。
このように、若年ながらも守将が不動の覚悟を固めていたものであるから、長篠城を攻め囲もうという一万五千の甲軍が、城下に溢れかえる様を目の当たりにしても、籠城衆は自分でも驚くほど落ち着いて、慌てふためくことがなかった。それは、自らを死地に置いた家康を呪詛した心持ちとはまた性質を異にするものであった。
さてここで、彼等が恃んだ長篠城とはどのような城塞だったのであろうか、その特徴について概観してみることにしよう。
長篠城は北東から南西に流れる宇連川、北西から南東に流れる寒狭川が合流する三角点に築かれた城郭で、平城に分類される。宇連川、寒狭川は合流して豊川となり、合流部の頂点、つまり城の南端には野牛曲輪が置かれた。野牛曲輪には、土塁が構築された痕跡が後世の発掘調査でも発見されておらず、「柵や塀しかなかった」という史書の内容を裏付けている。
野牛曲輪の北側には空堀を挟んで本丸が置かれている。更に本丸の北側にはこれを守備する帯曲輪があって、帯曲輪の東西にそれぞれ瓢曲輪、弾正曲輪が置かれていた。
東から瓢曲輪、帯曲輪、弾正曲輪と並ぶ防御機構の中央部には半円形状の空堀と土塁が確認されており、一時は武田方に属したこともある城だけあって、武田流の築城技術として甲信の城郭に多用された丸馬出が、長篠城にも備わっていたものと推測される。北側から臨む往時の長篠城は、丸馬出を中央部に据え、その東西に曲輪を並べて威容を放っていたことだろう。この方面からの攻撃は、寄せ手に重圧を与えたに違いない。
翻って南側はどうか。
地続きで攻め寄せられる北側に曲輪郡が設けられたのとは対照的に、南側は野牛曲輪だけが防御の要であった。東西、それに南を川に囲まれて防御に適した場所に位置するとはいえ、土塁が発見されなかったところを見ると、自然地形である河岸段丘をようやく活用する程度だったと考えられる。版築されたわけではない剥き出しの河岸段丘上に、柵と塀だけを恃んで籠もる野牛曲輪は、北側に連続する防御機構と比較すれば遙かに貧弱に見えたことだろう。しかも野牛曲輪を奪取すれば空堀ひとつ挟んで本丸に到達することが出来るのである。
強固な人工防御機構を備えた城北と、ほぼ自然地形のみに依拠し、極端に貧弱に見える城南。これこそ、本丸を餌に、寄せ手の圧力を南側の野牛曲輪一点に集中させる防御側の工夫であった。
南側と違って、川などの天然の防御機構を持たない北側こそ、実は本城の弱点であり、その方面から攻撃されたくないという防御側の心理が、城北に防御機構郡を連続させた所以であった。事実、長篠城を取り囲んだ甲軍も、城南即ち野牛曲輪に対する攻撃を以て初手としている。
さてここにひとつ疑問が生じる。即ち、城北こそ長篠城最大の弱点と知っているはずの武田方が、それでもなお南側の野牛曲輪へ攻め寄せた理由である。城北から攻め寄せたというのでなければ道理に合わぬ。
城北に丸馬出が構築されたのは、おそらく長篠城が武田方の支配下に属した元亀二年(一五七一)から、家康に奪回される天正元年(一五七三)までの間のことである。構築者は他ならぬ武田方と推察される。構築者だけあって、丸馬出の威力を武田方は知悉していたのであろう。それだけに、城北からの力攻めにより、寄せ手に犠牲者が多数出ることを警戒したのがその理由ではなかろうか。
また、城南は野牛曲輪が唯一の防御機構だと先述した。それもまた事実であって、宇連川、寒狭川、豊川という天然の要害を乗り越え野牛曲輪を陥れさえすれば、本丸奪取は成ったも同然、城北の曲輪郡も用をなさず、城がまったく寄せ手の手中に落ちるというのもまた事実だった。
いずれにしても籠城衆五百名、これに対し寄せ手の甲軍約一万五千。城方の士気は高く、防御に優れた要害に拠っているとはいえ、籠もって長く持ち堪えられる性質のいくさにはならない。甲軍の鋭鋒を長篠城に向け、吉田城への圧力を躱した家康であったが、出来るだけ速やかに信長の後詰を得なければ、これまで必死に繕ってきた防衛線が崩壊することは疑いがないところであった。
長篠城を見下ろすことが出来る大通寺山医王寺に本陣を置いた勝頼は、鳶ヶ巣山砦に河窪武田兵庫助信実、姥が懐砦に三枝勘解由昌貞、山中砦に牢人那波無理助、久間山砦に和気善兵衛、君ヶ伏床砦に和田信業をそれぞれ籠めた。長篠城に対する付城郡である。
甲軍の勝利は目前に迫っていた。




