長篠城攻略戦(三)
信長の岐阜帰還を聞いた家康は、それでも信長が後詰を送って寄越すか否か、家臣団に対して確信を持って断言するというわけにはいかなかった。いうまでもなく遠州高天神城陥落の苦い記憶があるからだった。信長が、畿内の諸敵を掃討しきらぬうちに、東で武田と干戈を交えることを嫌っているのは間違いのないことであった。
「信長が義理を果たしてくれるかどうか、分からない」
この不安を拭い去れない家康は、大野田城を攻略し吉田城の眼前まで進出してきた甲軍を前に気が気ではなかった。その重要性に鑑み、吉田城自体の防備を固め、加えて戸田氏累代の二連木城を支城としていたが、それでも吉田城の防御に不安を隠しきれない家康は、浜松城を出て吉田城に入城することを決する。しかしそれは、吉田城攻略を決議して、いままさにその防衛網の一端である二連木城に、甲軍が襲いかかる時宜と軌を一にしていた。
朝倉川の河岸段丘を利用して築城された二連木城は、本丸、二の丸、それに二の丸を取り囲むように東曲輪、南曲輪を備えた平山城である。明応二年(一四九三)に、戸田宗光によって築城されて以来、戸田氏累代の本拠地とされてきた城であった。当主は当年十四の戸田康長である。先代重貞は家康が今川氏真から独立を勝ち取る過程で戦死しその跡目を継いだもので、康長が元服を果たしたのは前年のことであった。
元服を果たしたとはいえ依然幼年の当主である。戸田家中は城下に武田の軍旗が迫る光景を見て震え上がった。幼君を殺されるというわけにはいかない。
徐々に城に迫り、一糸乱れぬ軍列を円形に布陣した甲軍が、いよいよその一端を二連木城搦手に回り込ませたとき、あらかじめ申し含めていたように、包囲が完成する直前で二連木城衆は城から遁走を開始した。吉田城に逃げ込むためであった。時を同じくして戦域に出現したのは、浜松城を吉田城目指し出陣してきた家康本隊であった。
「二連木籠城衆、城を捨て逃亡」
「東から金の大扇の馬印に、厭離穢土欣求浄土の纏を掲げる一軍あり。家康が一隊と見得申し候」
斥候からこの報を受けた昌景は、二連木籠城衆の逃走と家康本隊の戦域出現という二つの事象にほぼ同時に見舞われたことを悟ったが、判断は冷静で素早く、しかも錯誤を犯すということがない。
「二連木籠城衆には目もくれるな。家康本隊に襲い掛かって、一気に揉み潰してしまえ」
と、目的を家康本隊に絞って突撃の采配を振るった。
甲軍の一兵卒に至るまで、金扇の馬印と厭離穢土欣求浄土の纏が意味するものを知らぬ者はない。
「御屋形様眼前のいくさぞ! 励め!」
とする昌景の下知を得るまでもなく、虎豹が爪牙の如き干戈を動かしてこれを屠るべく襲いかかった。しかし襲いかかる甲軍が必死ならば主君家康を守る徳川諸衆はそれを上回って必死であった。
「城は目の前だ! 凌ぎ切れ」
人々の護衛を受けた家康は、無事に吉田入城を果たしたのであった。
「家康滅亡の千載一遇の好機であったものを!」
勝頼は昌景が勢い込んで家康本隊に襲いかかっておきながらみすみすこれを取り逃がし、吉田入城を許したことに歯嚙みした。
この時代、いくさに先立ち軍配者が筮竹を立て出師の吉凶を占う、ということは当たり前におこなわれていた。それほどいくさの勝敗や作戦の成否というのもは先々の見通しが困難なものと考えられていたのである。勝てると思っていたいくさに敗れ、天候の急変、敵或いは味方の裏切りなど様々な要因が絡み合い、いくさ場で起こるすべての事象を事前に予測しておくことは実際困難であった。
今回の場合、家康の戦域出現はある程度予想可能な事態であったが、徳川の兵が心を一つにして大将を守り切ったことは、昌景にとって、いや、他の武田諸将にとっては予想外のことだったに違いない。このたびの戦役に先立ち、内通者まで出した徳川家中が、これほどまでの団結力を発揮し得ると一体誰が予想したであろう。
しかし昌景が家康を取り逃がしたことは、勝頼の不興を買った。
信玄死去直後あたりからの昌景は、どうも運が暗転したように見受けられる。体制が変わってしまったからだといってしまえばそれまでの話であるが、なにをやっても上手くいかず、自分の実力以外のところでいくさの勝敗やことの成否が定まってしまい、結果として勝頼の不興を買う、というようなことが頻発しているのだ。今回もその例に漏れない。世間から見れば甲軍の圧勝であって昌景の勇名をまたぞろ轟かせはしたが、勝頼は不満を示した。
ともあれ家康の吉田入城を許した勝頼は、城下において刈田狼藉を働き、吉田城に籠もる家康を誘きだそうと必死に挑発している。これに対して家康は、危険も顧みず城を打って出た。信長の後詰を得られるかどうか確信を持てない状況下、徳川家当主として、その求心力を保つ必要が家康にはあったのである。
武田と徳川は吉田城近郊のはじかみ原なる場所で激突したという。しかし兵数に劣る家康に、本格的な野戦を戦う意図など最初からない。そのことを知る甲軍は、それでもなんとか家康を本格的な野戦に引き摺り込もうとして、馬上衆を徳川方に乗り入れさせ、挑発した。敵方の動揺を誘う甲軍の常套手段である。
戦意旺盛な軍であれば、敵の馬上衆が自陣に乗り入れたとみるや、これを逐うべく軍列を離れる者が続出するのが通例であったが、今日の徳川はそうはならなかった。
戦意が寡少だったためではない。
「決して陣を乱すことなく、敵馬上衆が乗り入れてきても槍衾をつくって追い払うにとどめよ」
という家康の命令が行き届いていたからである。
徳川方に乗り入れようとした甲軍手練の馬上衆は、槍衾によってそれを果たすことが出来ず、窮して罵詈雑言により挑発したが、やはり家康の陣は乱れる様子がない。やがて徳川陣営から放たれた幾筋かの矢弾に逐われ、馬上衆は甲軍の陣へと返していった。
そのうち徳川方はじりじりと後退をはじめ、背後に隙を見せることなく再び吉田城に逼塞してしまった。
このまま吉田城に拘泥してこの包囲攻城を継続すれば、信長の後詰が押し寄せてくる危険性は日を追って増すばかりだ。武田の譜代宿老の危惧が、現実のものとして勝頼に迫ってきた。勝頼は全軍に
「踵を北へ返し、長篠城を攻め落とす」
と宣言した。
そのように宣言はしたが、長篠城を攻め落として退路を確保することが出来れば、勝頼は吉田城攻略を継続するつもりでいた。もし家康が長篠城を包囲する甲軍の背後を衝くというのなら、それこそ設楽が原近辺でその一軍を捕捉、殲滅出来るというものである。
勝頼は依然、この戦役での家康討滅を諦めてはいなかった。