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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第三章 長篠の戦い
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野辺送り(七)

「えらくしけているな」

 草間官兵衛は甲斐府中の街区を歩きながら呟いた。馬場美濃守信春に引率され、久しぶりに甲斐府中に至った草間官兵衛のような他国の軍役衆にとって、府中は戦乱とは無縁の、平和で発展した街であった。

 この時代、一度戦火に焼かれた街はそう簡単には復興しなかった。流通上さほど重要でもない地は、特にその傾向が強かった。

 甲斐も山間の国ではあったが、他国の侵攻を最後に受けたのは、三十七年前の天文七年(一五三八)のことであった。このときは北条氏綱が都留郡上吉田に侵攻したもので、府中近辺ともなると、更に遡って大永元年(一五二一)に福島正成が龍地まで侵攻したのが最後であった。それから今日まで、復興には十分な時間があったし、この間信玄による釜無川、御勅使川の治水事業と、他国からもたらされる富によって、甲斐府中は他の武田分国では見られないほど繁栄していた。

 田舎暮らしの憂さを晴らそうと繰り出してきた勘兵衛であったが、府中の街区は街並みもそのままに、やけに静かであった。酒肴を供する店は軒並み閉まっていたし、楽曲の音も聞こえない。遊郭に人を呼び込もうという遊女の姿すら見受けられなかった。

「ここまで来て部屋飲みか」

 官兵衛はがっかりして呟いた。宿舎に帰った官兵衛は宿の親父に酒を注文した。

「今日は申の刻の始まり(午後三時)までは酒も楽器も殺生も駄目です。お奉行からそのようなお達しがありました」

 宿の親父にそうやって酒肴の提供を断られた官兵衛は尋ねた。

「なにがあったというのだ。誰かが死んだのか。まるで喪に服しているようではないか」

「さて。わしらは何にも聞いちゃおりません。なんせ、御武家様のなさることは難しいことばかりで」

 親父は肩をすくめてそうこたえた。

 親父の皮肉交じりのひと言に、官兵衛は口を固く結んで、ふんっとひと息、鼻息を鳴らしたのであった。


 官兵衛がうろついていた三日市、八日市といった街区より北に十七、八町(約二キロメートル)も行ったところに、躑躅ヶ崎館はあった。これへと至る城下の街に配された重臣屋敷のそこかしこには衛兵が置かれ、厳重な監視体制が敷かれている。

 それもそのはずである。府第の敷地内では、いままさに先代信玄の三回忌法要が営まれていたのだ。他国から放たれ府中に潜伏しているであろう草(忍者)が、この様子をどこからどう見ているか知れたものではない。勝頼はこれら監視の衛兵を街に配するだけでは飽き足らず、法要の列が歩く道の両側に虎落もがりを結って、こういった者達に対する目隠しとしていた。

 ただ、道とはいっても、かかる防諜上の理由から、葬列が躑躅ヶ崎館の敷地を出ることは予定されてはいなかった。信玄のがん(棺)を担いだ葬列は、本丸御殿に当たる躑躅ヶ崎館本主殿を出て、他国からの人質が置かれていた西曲輪を舐めるように北上、厩の南を大手門(東)方向へと進み、同じ道を本主殿まで引き返すという手順であった。

 虎落は道の両側だけではなく、本曲輪と西曲輪との境界にも置かれた。他国の人質にこの様子を覗き見られないようにするための措置であった。

 葬列が歩く道を表すため、そこには稲掃筵いなはきむしろの上に布が敷かれ、さらに絹を敷いたと伝えられている。虎落はこの道の両側に結われたものであった。

 信玄位牌は勝頼嫡男武王丸(たけおうまる)が持った。武王丸は導師春国光新(しゅんごくこうしん)、副導師快川紹喜の後を歩んだ。春国光新は府第敷地内の道をゆっくりゆっくりと歩いた。立ち止まりもした。

 喪主勝頼をはじめ逍遙軒信綱、穴山玄蕃頭信君、仁科五郎(信玄五男)、葛山十郎(同六男)、典厩信豊、望月左衛門尉(信豊弟)、一条信龍(信玄異母弟)、川窪信実(同)、小山田左衛門大夫信茂などの親類衆は信玄の龕を取り囲み、それぞれこれに手を掛け付き随った。

 彼等親類衆の後には、春日弾正忠虎綱、馬場美濃守信春、内藤修理亮昌秀、原隼人佑昌胤、土屋右衛門尉昌続、三枝勘解由左衛門尉昌貞、武藤喜兵衛尉昌幸、跡部大炊助勝資、長坂釣閑斎光堅、甘利信頼等譜代重臣が続いた。

 なお山県三郎兵衛尉昌景は先述のとおり信玄位牌を奉納するため高野山成慶院に出向いており不参加、穐山伯耆守虎繁は東濃方面の情勢が極めて緊迫していたため岩村に在城を命じられており不参加であった。

 虎落の外では被官衆が折り敷いて、この葬列を見守ったという。

 一行は、導師がゆっくり歩めばそれに従い、立ち止まればそれに従って立ち止まった。所謂野辺送りであった。死者の魂が再び現世に迷い出て来ることがないように、火葬場までの道程を立ち止まったり回り道をする風習である。

 しかしそれにしても龕は軽いものであった。およそ人ひとりの遺骸が納められているものとは思われなかった。

 それもそのはずで、龕の中はからであった。信玄の遺骸は、来年に予定されている本葬までは本主殿の一角にある塗籠ぬりごめに安置され続ける予定であった。

 すなわち、この葬列には被葬者たる信玄の遺骸はなかったし、野辺送りとはいっても府第の敷地を出ることはなかった。信玄の遺骸が荼毘に付されるということもないわけである。

 野辺送りという風習の意味を知らぬ勝頼ではない。ふと、ある考えがその脳裡をよぎった。

(父の霊魂は、府第に止まり続けるのではないか)

 勝頼は葬列を歩きながらこの想念を

(馬鹿らしい)

 と考えて、振り払おうとしたが、どうにも振り払うことが出来なかった。

 この龕の中に父の遺骸はなく、それは未だに府第の塗籠に安置されているのだ。したがって父の魂魄は、父自身がそうしようと思えば迷うことなく現世に現れることが出来るに違いない。それがいま、勝頼治世に少なからず反感を抱いている連中の前に出現したとしたら・・・・・・。

 そのような想念であった。

 勝頼はふと、龕に手を掛けている一族の人々や、これに付き随って葬列を歩く譜代重臣の顔を顧みた。皆押し並べて神妙な表情をしていることに違いはなかったが、その多くが普段と比較して殊更に青白い顔色しているように思われた。天候や日照にっしょうの加減によるものではない。何故ならば、そのような顔色になっている者と、そうはなっていない者とがはっきり区別できたからであった。

 勝頼は殊更に青白い人々の顔色を、どのように言い表せば良いのかを、葬列を歩みながら考えていた。勝頼にはその顔色を「死相」と呼ぶ以外に、適当な呼称を見つけることが出来なかった。

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