野辺送り(三)
駿河国江尻から紀伊国牟婁郡新宮津までの海路は、昌景が心配したのとは裏腹に順調そのものであった。途中、幾度か強い風に吹かれたりしたが、そのために大船がどうこうなってしまうような代物ではなかった。ただ、風が吹けばそのあまりの冷たさに昌景は閉口した。やりきれなかったのは、海流は絶えず北東方向に流れているのに、目的地はその逆方向で、船は海流に逆らって進まなければならないことであった。北に聳える富士山はいつまで経っても雄大な姿を湛えたままであった。そのために船が本当に前進しているのか実感することが出来ず、ともすれば後退しているのではないかとすら思われるほどであった。
もうひとつ辟易したのが船酔いであった。大船を破壊してしまうほどではなかったが、船は終始波に揺られ、陸では長時間騎乗しても馬酔いすることがない昌景を苦しめた。信玄の位牌を抱いたまま太洋に漂い、飢え苦しむ自分を事前に予想した昌景だったが、船酔いによって食欲不振を来たし、食が尽きて飢えるより前に自ら食を好まなくなった。
遅々として進まぬ船と、船酔いの症状に苦しめられた昌景であったが、幾日かして富士山の方角を望むとその姿はいつの間にか遥か彼方にようやく霞んで見える程度になっていた。翻って南西方向を望むと、複雑に入り組んだ海岸の中に、素人目にも良港と見える入江が視界に飛び込んできた。昌景は信玄の位牌を抱いて、半月ぶりに揺れることがない大地を踏みしめたのであった。
昌景を新宮津まで運んだ大船は、帰路も昌景が乗船するので港に停泊し、昌景自身は従者二名とともに陸路を伊都郡高野山まで歩いた。海岸沿いをおよそ四十里(約二百キロメートル)。五日の行程であった。
昌景は沿岸の街道を歩きながら、不思議な感覚に見舞われていた。信玄が騎乗する馬の口を自ら取り、京洛への道をいままさに進んでいるかのような感覚に襲われたのである。陸路を歩み始めてから、昌景は幾度もそのような想念に襲われ、昌景も白昼夢然とした想念を強いて振り払うことなくむしろそれを愉しんだ。
元亀三年(一五七二)の暮れ、三方ヶ原の戦いで家康を散々に打ちのめした信玄は、しかし病に倒れてそれ以上前進することが困難になっていた。信玄は、この日を境にみるみるうちに痩せ衰えて、それでも上洛への執念だけは衰えることなく、最後までそれを望みながら死んでいったのだ。
「明日は、我が旗を、瀬田に立てよ」
信玄はこの命令を、他の誰でもない、山県三郎兵衛尉昌景に下したのである。いま昌景は、信玄の位牌を抱きながら、当時とは道程こそ違えど、京洛の眼前にまで到達していた。
比較的整備の行き届いたこの沿岸の街道をあと数日も歩めば、さほど苦労することもなく京洛に達することが出来るのである。なので昌景は、途中、高野山へと入る鬱蒼とした参道に踏み入れるとき、こぼれ落ちる涙を堪えることが出来なかった。それは、信玄を奉戴しながら京洛を目の前にして二度までも入京を果たすことができなかった悔しさと悲しさによってこぼれた涙であった。山間の道に入ってからは、昌景は件の白昼夢を見ることがなくなった。
昌景は三月六日、目的地たる成慶院に到着し旧主信玄の位牌を奉納した。しかしそれは昌景にとって、特別な感慨を以て執行されたものではなく、ごく事務的に執り行われた仏事でしかなかった。もし昌景が特別な感慨を抱くときがあるとしたら、それは信玄の位牌を抱きながら京洛へと至ったときだっただろう。
(いっそのこと、あのまま海岸沿いの街道を進み続けて入京してしまった方がよかったのではなかったか、御屋形様(信玄)も実はそれを望んでいるのではないか)
僧の読経を聞き、形ばかりの合掌をしながら、昌景はそのようなことを考えていたのであった。
だが成慶院での滞在期間は、昌景にとって空疎なものばかりとはいえなかった。なぜならばそこには、兄飯冨兵部少輔虎昌の位牌も祀られていたからであった。
太郎義信の謀叛に同心した虎昌は、その企てが発覚するや全責任を一身に背負う形で切腹した。今から十年前、永禄八年(一五六五)十月十五日のことである。
兄の謀叛への荷担の度がどの程度であったか、本当のことを昌景はいまでも知らない。虎昌が詳細を語ることなく腹を切ってしまったからであった。しかし飯冨兵部少輔虎昌が謀叛人として誅殺されたことは紛れもない事実なのであって、兄の謀叛を信玄に注進した昌景であればこそ、その霊をおおっぴらに弔うということが本国甲斐では出来ないでいた。
(笑ってくれ兄上。俺は兄上の謀叛を御先代に告げ口した。いま、義信公に代わって武田を継いだ新主に、俺は疎まれている。このような皮肉があるだろうか)
昌景は虎昌の位牌の前でしばし合掌し、最後にひと言
「笑ってくれ」
と言った。
その声は涙のために揺れていた。




