野辺送り(一)
勝頼が、大賀弥四郎から武田の軍勢を岡崎に手引きする旨の密書を得たのは、二箇月前の天正三年(一五七五)二月中のことであった。勝頼はさっそく跡部大炊助と長坂釣閑斎を召し出して対応を諮問した。
諮問に先立ち勝頼は、
「大賀弥四郎と名乗る三河奥郡の代官からの手紙だ。余はこの手引きするところに乗って、岡崎を一気に陥れようと考えておる」
と前置きしてから、自らの存念を陳べた。
「自分の死後三年は外征を控えるべしとは、父の遺言ではあるが、自分の死後は一度は京に攻め上るようにというのも他ならぬ父の遺言である。いま、天下の情勢を鑑みるに、父の死後一年を経ずして、淺井朝倉両氏が信長によって攻め滅ぼされ、御公儀(足利将軍)は畿内を放逐された。もはや畿内における信長の優位は動かしがたい情勢である。翻って当家を顧みれば、父が晩年に起こした幾多の戦陣によって財政は逼迫し、金山からの採掘量も枯渇しておると聞く。跡部、如何か」
「まず国内の黒川金山におきましては、御先代の折、特に天文弘治永禄のころには採掘盛んにして、金山衆は軍役、伝馬などの諸役に服しておりましたが、近年これが激減し、金山衆困窮して諸役免除の申請がなされております。無論金山衆の人々とて手を拱いてかかる事態を傍観しているものではなく、鶏冠神社に仏像を奉納し新たな鎖(鉱脈)を発見できるよう祈願することを検討しておるということです」
いま、跡部大炊助が挙げた黒川金山といえば、武田領国における最大の金山である。
土地は痩せ、なんの産業もなかった甲斐国に拠って立つ武田家が、東国を代表する大大名に成長した原動力こそ黒川金山から産出する砂金であった。信玄は黒川金山を採掘する人々に自治権を与え採掘を委任しながら、一方で一定額の運上金の上納と諸役を賦課し、武田家の領国経営に協力させたのであった。信玄は金山衆から納められた金を最大限に活用して、武具を整え他国の人々の心を買い、兵を取り揃えて、版図拡大に狂奔してきたのである。
その黒川金山からの産出量が激減したのは、信玄晩年のころからであった。時を同じくして信玄は今川との同盟を破棄して駿河に兵を差し向けている。これなど、黒川金山の枯渇を見越して駿河の富士、安倍などの金山を獲得するためだと、武田の内情を知っている者は過たず看破したものだった。
信玄は新たに獲得した駿河の金によって、晩年に至りようやく上洛の軍を起こしたのだが、それとて分国の人々に課した、多大な税を加えてやっと起こし得たものであった。文字どおり、国内から矢銭(軍資金)を掻き集めた信玄であったが、その志を果たすことは遂になかった。先に寿命の方が尽きたのだ。
信玄の志は勝頼に託された。しかし駿河の金山から上がる金の量は、最盛期の黒川金山に遠く及ばない。武田の財政は日々細っているのが現状であった。
翻って信長はどうか。
今を遡ること三十二年前の天文十二年(一五四三)二月、信長の父信秀は、連年の大雨洪水のために損壊著しい土御門内裏の修理費名目で、朝廷に対し四千貫もの禁裏御修理料を納めている。他でいえば、同時期、同名目で今川義元が納めた五百貫が最大であるから、織田家からの献金は他を遙かに凌いで突出していた。
後に生起する桶狭間合戦時における彼我の兵力差から、今川家に対して遥かに弱小だったと思われがちな織田家であったが、少なくとも経済的には他国に抜きんでて優位だったのである。
濃尾平野は当時の日本国内有数の穀倉地帯、人口密集地であった。甲斐や駿河のように、地下資源には恵まれていなくても、課税の裾野はこれらの国々よりも遥かに広かった。人口の多寡こそが国力の決定的な差だったのだ。
その濃尾平野を出発点にして、信長はいま、畿内近国をその傘下に収めようとしていた。同地域もまた人口密集地である。かかる事態を拱手傍観しておれば、国力差は遂に覆し得ないものとなるであろう。勝頼には、金山衆の祈禱に任せて信長を放置しておく気はさらさらなかった。
「信長を、一刻も早く叩く必要がある」
勝頼はこの認識を強く持っていた。信長を叩くためには、その同盟者たる家康を討ち滅ぼすことが大きな一歩となり、それなくんば信長討滅など到底果たし得ないと考えられた。この度の大賀弥四郎からの申し出を契機として、家中にそういった認識を共有しようと考えたわけである。
しかし、である。
家中には未だ、亡父信玄の遺言を金科玉条として、その遵守を求める勢力が多かった。勝頼は軍議に先立ち、自身の藩屛たる跡部大炊助、長坂釣閑斎に、自らの意図をよく理解させ、この両名をして自らの主戦論を展開させようと考えて、特別にこの二人を召し出したのであった。そして長坂跡部の両名は、過たず勝頼の意図を理解した。
大賀弥四郎からの密書を得た勝頼は、その密議がようやく形をなしはじめた三月のはじめに諸将を召し出した上で軍議を開催した。
軍議においては諸将の発言に先立ち、御屋形様近習から標的となる敵方の情勢が説明されるのが通例であり、今回も標的となる三河徳川家の情勢について近習から説明がなされた。徳川家の動員兵力は武田と比較して約半分であり、加えて家中が動揺し内通者が出始めていること、信長が二月下旬、大坂に向けて出陣したこと、このため近江の六角承禎から、後詰のための出兵要請が武田家にもたらされたことなどが近習の口から語られると、慎重派の論陣は滞りがちとなった。
それもそのはずである。この情勢、どこからどう見ても、家康を滅亡に追い込む絶好の機会であった。
軍議の席の下座に目をやれば、長坂釣閑斎が、皺だらけの顔を上気させている姿が見えた。出師に反対して自らの存念をまくし立てるのではないかと思われた内藤修理亮や穴山玄蕃頭を、勝頼の意を受けて論破しなければならない重責を担って、発言前から昂奮しているのであろう。慎重派がなにごとか発言すれば、長坂釣閑斎がすぐさま反論を加え、そういった意見を封殺する手筈であった。
一方、これまで信玄の遺言を楯に、慎重論をぶち上げると考えられた内藤修理亮昌秀も、このような好機に接して、今回ばかりはだんまりを決め込む以外にないとみえる。苦虫をかみつぶしたような顔で、腕を組みながら近習の説明に聞き入るばかりであった。跡部や長坂相手に、負けることが分かっている論戦を戦うことを嫌い、黙っているように勝頼には見えた。
軍議では出陣の時期は四月十二日と定められた。信玄の三回忌法要を済ませてから出陣するものであると、人々には思われた。
「御屋形様、意見出揃いました」
そう言ったのは席次最上位にある山県三郎兵衛尉昌景であった。軍議の終了を、勝頼に促したのである。それはいつもの風景であって、勝頼が
「一同、大義であった」
と告げれば、諸将は軍議を終えてそれぞれの本貫地や在番城に帰り、軍備を整えるのが通例であった。それが、今日ばかりは少し勝手が違った。発言したのは他ならぬ勝頼であった。勝頼の言葉は昌景に向けられた。
「父の位牌を、高野山成慶院に奉納しなければならん」
勝頼の言葉が軍議の締めに発せられた、という点を除けば、特に不思議ではない発言であった。三回忌法要執行と考えあわせれば、位牌を高野山における武田の宿坊である成慶院に奉納しなければならない時期ではあった。しかし次の勝頼の発言は人々の度肝を抜くものであった。
「父との浅からぬ縁を慮り、特別に高野山への使者に任ずる」
山県三郎兵衛尉昌景に、その役目を申し付けたからであった。
「一同、大義であった」
勝頼は、その眼に徹底して冷たい光を宿しながら散会を宣言した。昌景は勝頼に向かってひれ伏した姿勢を崩すことがなかった。