大賀弥四郎事件(一)
家康に仕えていた中間のなかに、算術に特異な能力を示した者がいた。名を大賀弥四郎という。
中間というからには根っからの武士ではなかったのであろうが、算術の能力を買われて三河奥郡二十余郷の代官となった。租税の徴収を担当したという。
大賀は、徳川の侍衆がいくさを終えて帰還するたびに
「今回は兜頸を獲った」
とか
「一番鑓をつけた」
などと自慢げに語らう姿を、内心軽蔑しながら眺めていた。
大賀弥四郎には自負があった。
「矢銭(軍事費)を集めているのは一体誰だと思っているのだ」
「お前達がいくさ場に出られるのは誰のお陰だと思っているのだ」
という自負である。
このころの徳川が、存亡の危機にあったことは前に陳べた。信玄の路線変更、西上作戦に伴う遠州及び北三河への進出と、その路線を引き継いだ勝頼の攻勢に曝されて、徳川の領土はじわじわと削り取られるばかりであった。
なんといってもいくさには金がかかった。召し替えの具足や弾薬、糧秣などをいくさのたびごとに用意しなければならない徳川家そのものもそうだったし、もっと末端の侍衆も、いくさのたびに金が要り用になるという点においては同じであった。召集がかかって指定された場所に参集すれば、着到がつけられ、その場で人数や武装を点検されるのである。具足の解れや馬介の未着装、規定外の武装などは、場合によっては懲罰の対象になった。
武田家相手に防戦一方、領土を拡幅できない家康は、人々に軍役を課する立場にありながら、こういった麾下将兵に知行を宛がうことができないでいた。
大名は将兵に知行を宛てがい、その生活を保証してやらなければならないという義務があった。将兵は生活を保証してくれる大名のために、知行のうちから費用を捻出して武装を調え、軍役に服さなければならないという双務関係が厳然として成立していたころのことである。領土を拡げることが出来ないということは、麾下将兵に知行宛行できないということである。知行宛行できないということは、将兵の生活を保証できず、軍役を課す根拠をも欠いているということなのであって、家康が大名としての義務を果たすことができないということであった。このときの家康は、人々から見限られても、なんの不思議もなかったわけである。
だが家康がこの滅亡の危機を切り抜けたことは歴史的事実である。出資者に助けられてのことであった。
家康を助けたひとりは織田信長その人であった。東濃で武田と交戦状態にあった信長が、東海方面に緩衝地帯としてある家康を背後から支えていたのである。
天正二年(一五七四)六月、勝頼による高天神城包囲の際、援兵を率いて三河吉田城まで達していた信長は、結局後詰に間に合わなかった。高天神城落城を聞いた信長は戦後、家康に対して黄金を二駄、贈っている。これなど救援が間に合わなかったことに対する詫び料であると同時に、領土拡幅どころか失陥してしまい、またぞろ身が細ってしまった家康に対する軍事費の補填という意味合いもあったに違いない。
武田の攻勢を前に、ともすれば心が折れそうになっただろうこのころの家康は、信長に金で買われて対武田戦を強要されていた、という側面も間違いなくあったわけだ。
もうひとり、家康を支えた者がいる。茶屋四郎次郎という商人であった。武田家にも水上宗富や諏方春芳軒といった御用商人があったのと同様に、茶屋四郎次郎は徳川の御用商人として、その主要な戦役に従事してもいる。重用され士分と成ったあたりも、武田家における水上宗富とおなじであった。
余談であるが茶屋四郎次郎は、もとをたどれば旧信濃守護小笠原長時の家臣だった中島氏だと伝えられている。小笠原家を出奔した経緯が主家との軋轢にあったのかどうかは知る由もない。対武田戦を戦う家康に肩入れしているところを見ると、茶屋四郎次郎は、旧主小笠原家に対して、なにがしか憧憬の念のようなものを持ち続けていたのかも知れない。そうでなかったというならば、商人特有の嗅覚が、後の天下人たる家康の将器を鋭くも嗅ぎ分けて、先行投資に奔らせていたものであろうか。茶屋四郎次郎は、織田と武田という東西の大勢力に挟まれてようやく日々を消光するに過ぎなかったこのころの家康を、経済面で支え続けている。
大賀弥四郎のごとき三河一郡の租税徴収担当者が家康を支えたとは言い条、この二人と比較すれば、貢献の度合は遥かに小さなものだったに違いない。
それでも大賀弥四郎は家康信康父子に気に入られ、浜松と岡崎それぞれに頻繁に出入りしては、
「大賀弥四郎がいなければ徳川は一日たりとも保たない」
と、周囲にいわしめるほどの権勢を誇り、本人もそのことを大いに鼻にかけたと巷間伝えられている。
たとえば近藤登之助という徳川の侍は、家康より加増を申沙汰された。領土拡幅どころか勝頼によって海へと追い詰められつつあったこのころの徳川において、加増は異例の措置であった。大賀は近藤の加増について
「俺が取りなしてやったからだ」
と吹聴して廻ったという。これを耳にした近藤も一端の侍、
「大賀ごとき吏僚に阿諛追従した覚えはない」
と激怒し、家康に申し出て加増分を返上する気概を示した。この事件を境に、大賀の専横が家康の知るところとなって、失脚した大賀弥四郎が逆恨みして謀叛を企てた、というのが、「三河物語」に所収されている大賀弥四郎事件のあらましである。
大久保彦左衛門という、当代を生きた人物によって記された「三河物語」の史料的価値は今日、高く評価されているものではあるが、実は一切の誤謬なしと出来るものでもない。著述の過程において、彦左衛門自身は体験しなかった徳川家中における大事件を、当事者に取材しなければならない、ということも当然あっただろう。
大賀弥四郎事件が発生したころ、彦左衛門は初陣も踏んでいない幼年であり、本件については当事者たり得ず、「三河物語」著述にあたって本件の当事者或いはそれに限りなく近い人物に取材したはずである。当然、もう片方の当事者たる大賀弥四郎とその一族は謀叛人として誅殺されて随分経った後の著述であろうから、彦左衛門自身が如何に公平な取材と著述を心懸けたとしても、片方の当事者の一方的言い分だけを聞き取り、それを書き残したという形式に変わりはない。史料を読み解く際に注意しなければならないのはこういった点だ。
三河物語の中で、大賀弥四郎は、戦場で命を賭けることもなく、算盤勘定だけで出世し武士に超越した挙げ句、失脚した腹いせに、主家に逆意を抱いた佞人として描かれている。
しかし冷静に考えてみれば、このころの徳川が、独力では武田家に対してまったく勝ち目がなかったこともまた事実であった。算術に特異な能力を発揮したという弥四郎のことである。担当区域である渥美郡二十余郷から上がってくる税額を見れば、そのころ徳川領国全体でどの程度の収入があったか、ある程度計算することも可能だっただろう。
その目を東に向ければ、甲信駿三カ国に加えて遠州の大部分、北三河、東濃、西上野、飛騨に勢力を張る武田家領国があった。総計で百二十万石程度だったといわれる。
たったいま、武田領国は百二十万石程度だった、などと記したが、戦国期の東国は貫高制が基本であった。当然勝頼期の文書類で、知行宛行や軍役状を石高制で記したものは存在しない。なので、百二十万石程度という数字は、勝頼没後の天正十年(一五八二)から順次実施された太閤検地に基づき算出した数字、ということになる。
したがって飽くまでも参考にしかならない数字ではあるが、武田分国でいうと
甲斐二十二万七千石
信濃四十万八千石
駿河十五万石
合計七十八万五千石
がその領国の根幹であり、その他西上野、飛騨、東濃、遠江、北三河等を併せて、およそ百二十万石と算出したものであろう。
徳川分国はというと、同じ太閤検地に依拠して算出すると
三河二十九万石
遠江二十五万五千石
合計五十四万五千石
ということになるのだが、先述のとおり、山間部とはいえ武田家にそれぞれ領国の一部を掠め取られていたので、これよりも更に少ない数字だったことは間違いない。いずれにしても武田家の半分に満たない数字だったことは、算術に長けた大賀弥四郎にとっては明からであったはずである。
これら武田分国の郡域から徴されるであろう税額をも、弥四郎は推し量った。経済的な面から見ても、武田は徳川にとって圧倒的な存在だった。