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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第二章 家督相続
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蘭奢待切り取り(一)

 天文十年(一五四一)六月、嫡子晴信により国外に追放される憂き目を見た武田信虎が、女婿今川義元の許に身を寄せていたことはよく知られた話だ。その信虎も、桶狭間にて義元が横死を遂げたあとは、信玄と氏真の間柄が険悪になるにつれて駿河に居づらくなり、逃げるように京洛に至ったとする書も多いが、実のところ信虎は、甲斐追放後のかなり早い段階から断続的に上洛して畿内諸勢力の領袖や朝廷の有力者と知己の間柄になっている。

 戦国期の関東地方においては、守護は鎌倉公方の管轄下におかれ、在鎌倉を義務づけられる存在であった。しかし享徳の乱の過程で鎌倉を失陥した旧鎌倉公方足利成氏が下総国古河へと逃れ、また幕府の意向を受け鎌倉に赴任すべく派遣された足利政知も混乱甚だしい鎌倉に入府を果たすことが出来ず、伊豆堀越で足留めされ、そこを御座所とせざるを得ない状況が常態化すると、関東諸国の守護は自領に割拠することを余儀なくされる。

 これは在倉制の崩壊に他ならず、甲斐武田家の前当主武田信虎が上洛して在京奉公に及んだことが特に不審視されるということはなかった。寧ろ幕閣からは、在倉出来ない以上、在京が当然と受け止められていたようである。足利義昭などは信長と決裂した後、主従関係に則り信虎を近江甲賀郡に派遣して、反信長の人々を糾合したうえで挙兵するよう命じている。信虎はこれに従って近江に蠢動したが、この企ては足利義昭が槇島にて信長に敗北したことで霧消した。

 信虎が甲斐への帰還を望んだのは、将軍不在京により、信虎が依拠すべき権力が京都から消えたという事情を背景とするものであった。

 そして将軍不在京により困惑していたのは、なにも信虎をはじめとする「義昭派」の人々だけではない。他ならぬ信長自身も、実はその状況に困惑を隠せないでいた者のうちのひとりであった。

 ともすれば弱体と見做されがちな戦国期足利将軍であるが、実は意外と強固な権威をこのころまで保持していた。これは主に官途吹挙(すいきょ)や守護補任権を独占し続けたことが大きい。

 この時代、直奏じきそう(大名が朝廷に直接官位叙任を奏請すること)は固く禁止されており、幕府を通して奏請するのが基本であった。また、守護補任の権は、無論将軍固有の権利であるので、守護大名からしてみれば足利将軍家は、自家による領国支配の正統性を担保する存在であり、自らこれを討ち滅ぼすという発想は彼等にはなかったはずである。ただこのような将軍権力も、経済力や軍事力により裏付けられているものではなかったから、大名の意に添わない動きを将軍がした場合、御所巻ごしょまき等の実力行使によって事態打開を図る者がたびたび出現した(信長による槇島城包囲も一種の御所巻であろう)ので、結果的にこの時代の将軍は弱体である、という心象が形成されたものであろう。

 余談が過ぎたが、いくら望んでも将軍義昭が帰洛しないことで、信長は京師鎮護けいしちんごの正統性を失いつつあった。このまま何も手を打たずだだ漫然と畿内に在るだけだったら、周辺の諸勢力から袋叩きに遭っていたことだろう。事実、京畿の動きはそういった予兆を示しており、信長は諸敵を放っておけず掃討に大わらわであった。

 諸敵のうちの一で大和多聞山城の松永久秀は、元々信長に服属していたものであるが、信玄の西上作戦に伴って反信長に転じ、昨年(天正元年、一五七三)末に信長に降伏、居城を差し出して赦免されている。

 さてこの松永久秀の帰服が確実視される情勢下、三条西実枝(さねき)が岐阜に下向している。有職故実に通じたこの硬骨漢は、信長と馬が合ったようだ。

 岐阜城本丸奥の間に招かれて信長と共に茶を喫していたところ、思いもよらず信長から悩ましい胸の裡を聞かされることになる。

「実は、困っておりましての」

 そう切り出した信長に、実枝が事情を尋ねるとこうである。

「大和多聞山城の松永父子が再びこの信長に服属することがほぼ確実となりました。大和という地域は他の国と様相が異なり守護職が置かれたこともなく、取り敢えずは我が臣下の奉行を輪番で多聞山城に詰めさせることを考えておるのですが、南都(興福寺)の力が強かった大和に奉行を置いても筒井や松永といったやつばらと同一視されては信長の威勢も大和に行き渡りません。それゆえ頭を悩ませているのです」

 信長とて故実に通じた実枝を相手にしているからこそ吐露した苦しい胸の裡なのであって、その意図を汲まぬ実枝でもない。彼はさっそく持ち前の知識を披露して大和支配の方策を論じた。

「南都やの筒井やのに振り回されるから悩みはるんやで信長はん」

「しかし、避けては通れません」

「ありますがな」

「は・・・・・・」

「避けて通る方法がありますがな」

 実枝によれば、大和国は信長のいうとおり長く興福寺の守護権に属し、筒井等の武士団がその権威を担保してきた。ただ、強くなりすぎた南都興福寺を抑制するために他の寺社の権威が利用されてきた歴史もあり、就中なかんづく東大寺は聖武天皇の勅願寺であってその権威は興福寺に勝るとも劣らぬ。

 ところでその東大寺には正倉院という宝物ほうもつ倉庫がある。聖武帝、光明皇后ゆかりの品々を収蔵した倉庫であって、その中に蘭奢待らんじゃたいという天下第一の香木があると聞いている。足利将軍のなかでもこれまで数えるほどしかこの香木を切り取った者はおらず、信長がそれを果たせば、その権威は足利将軍と同等か、義昭を追放したいま、信長こそ将軍以上の権力者であると興福寺にも自ずと知れ渡るだろう、というものであった。

 信長は

「して、その数えるほどの足利将軍とは」

 と尋ねると、

「三代義満、六代義教、八代義政」

 という御歴々である。

「世上より嗤われませぬか」

 あまりの面子に思わず尻込みする信長。それに対し実枝は

「無論、恥を恥とも思わずほしいままに振る舞えば、世上の批難は免れまへん。せやから一段慇懃な振る舞いを心がけなはれ。大和を鎮護する者として、相応しく振る舞いなはれ」

 とこたえると、鉄漿おはぐろを幾重にも塗り重ねて漆黒に輝く歯を一瞬見せて、ニカッと笑った。実枝は手にしていた扇で、慌ててその口許を隠したのであった。

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