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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第二章 家督相続
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天正改元(一)

 遠州森における戦勝は家康にとって慶事に違いなかったが、喜んでいるばかりの家康でもなかった。対戦相手に超越する軍勢を率いていながら、なお狡猾で抜け目なく、容赦もなかった信玄の軍略と比較すれば、今回の武田勢の動きはそれとは似て非なるものであると冷静に分析していた。一連の抗争を経て家康は、信玄の死を確信するに至る。

 また飛騨では上杉に服属していた江馬輝盛麾下の河上富信が謙信の寵臣である河田豊前守長親に宛てて信玄死去の風聞を伝えているし、同じく飛騨において武田方に属していた姉小路あねがこうじ自綱よりつなは武田からの離叛を宣言していた。無論、信玄死去について確信を得、自綱をして信玄のあとは続かないと思わしめたからにほかならぬ。手負いの勝頼は飛騨国衆鍋山豊後守に宛てて、来春の姉小路討伐を宣言している。

 勝頼を慌てさせたのは同盟国小田原北条氏から遣わされてきた病気見舞いの使者であった。他の何者かであれば一顧だにせず追い返す勝頼であったが、北条家からの病気見舞いであればそういうわけにもいかない。群臣打ち揃って対応策を協議した結果、亡き信玄と風貌声音(こわね)共に酷似していた逍遙軒信綱にその対応を委ねることとした。

 ただ、今回使者としてやってくるという板部岡江雪斎は、生前の信玄直近まで接近し直接言葉を交わしたこともある、いわば知己の間柄であった。如何に信綱とて見破られる恐れを完全に否定することが出来ない。そこで信綱は府第奥の間に御簾を垂らし、部屋を薄暗くして、そこで板部岡江雪斎を迎えることとした。

 江雪斎が入室するや、信綱は大儀そうに床から上体を起こし、ごほごほと咳き込みながら

「人にうつる病ゆえに、そこに留まられよ」

 と言った。

 その言葉の調子、低くしわがれた声は、何年か前にあったことのとある信玄のそれに、確かに似通っていた。近習に支えられ上体を起こしているその姿。御簾の奥に隠れて陰影しか判別できないが、少なくとも江雪斎にとってはそれも数年前に謁見したことのある信玄の陰影そのものであった。

 もとより病気見舞いなど口実であり、諸国に飛び交う信玄死去の風聞について確かめるため江雪斎を派遣した氏政である。

「如何であったか」

 と帰国した江雪斎に確かめると、江雪斎は

「拙僧には、あれが信玄公ではないと確信を以て言うことが出来ません」

 とこたえた。

「信玄は生きているのか生きていないのか」

 氏政は執拗に江雪斎に問うた。

「生きております。そう判断せざるを得ません」

 かなり怪しい状況ではあったが、江雪斎の前にいたのは信玄に似通った声を発し、信玄に似通った陰影の人物であった。江雪斎は、武田家には信玄影武者を勤めるその弟逍遙軒信綱があることも知っていたが、御簾の奥にいたあの人物を逍遙軒信綱だと確信を以て言うことが出来ない以上、あれは信玄であると判断せざるを得なかったのである。

 なんとも皮肉な話であるが、武田家がなんとしても信玄の死を隠し通しておきたかった織田徳川は早々にその死を確信し、同盟国小田原北条氏相手には隠匿に成功するという結果をもたらしたのであった。

 もうひとり、信玄死去を知らず、それに踊らされた人物があった。将軍足利義昭であった。大山崎惣中が武田家に禁制発給を求めたくらいだから、京畿諸勢力はこぞって武田に靡く勢いであった。将軍としてかかる情勢に乗り遅れるわけにはいかなかった義昭も、遂に槇島まきのしま城に籠城して反信長勢力に転じた。しかし頼みの綱の信玄は遂に上洛に至らず、七月十八日、槇島城は陥落している。

 誤解されがちであるが、信長は義昭を京都から追放することについて了承していたわけでは決してない。それどころか義昭を赦免し、帰洛について打診さえしている。この義昭帰洛交渉は、義昭側が信長から人質を差し出すことを要求するなどして難航し、結局決裂するわけであるが、一度は武力によって屈服させた義昭に対し帰洛を願い出なければならないほど、将軍の権威というものは確立されたものであった。織田家が如何に強勢を誇ろうとも、将軍の名の下に権力を行使しなければ誰も従わなかったのだ。

 頼んでも義昭が帰ってこないことを悟った信長は、もうひとつの公権力にすがることになる。いうまでもなく朝廷である。

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