家康反攻(四)
「武田に勘付かれた」
作手亀山城に入った奥平定能は、嫡男信昌と自身の父道紋、それに弟の常勝に確信を以て告げた。
「城を脱出すると共に、急ぎことの次第を家康殿に連絡するのだ」
定能はそう言ったが、父道紋と弟常勝は脱出を拒んだ。
「殺されますぞ」
定能は脱出を勧めたが、道紋は
「武田と徳川がいくさすれば、いずれ遠からず武田が勝利するに相違ないと踏んで、我等一族こぞって武田に合力したが、そなたの企てが奏功しそうな折、必ずしも武田有利とは断じがたい。家康殿が勝利する目もないとはいえぬ。このうえはどちらが勝利したとしても奥平の名跡を残すため、わしと常勝はここに残り、飽くまで武田に合力致す。そなたと信昌は家康殿の許に奔るがよい」
といって聞かなかった。
そして定能信昌父子が脱出しようというとき、二人に対して道紋は、自身と常勝の身を荒縄で縛るように命じた。
「そなた等二人の謀叛を知ってみすみす逃したとあれば我等の罪科も免れまい。斯くの如く縛られてしまい、通報もままならなんだと言い訳するためじゃ。それ、遠慮なく縛れ」
定能は父と弟の身を容赦なく縛り、三の丸の厩にその身を放置した。そして信昌と共に殆ど身ひとつで作手亀山城を脱出したのである。
数日して作手亀山城に入ってきたのは、作手に着陣するよう求める典厩信豊の軍使であった。軍使が怪しみながらがらんどうの亀山城内を巡見していると、何やら厩のあたりから助けを呼ぶ声が聞こえる。それへと赴くと、老武者と壮年の武者が荒縄に縛られて馬糞塗れになりながら転がっているではないか。
「これはどうしたことか」
軍使の問いに、道紋は
「我が子定能に謀られた。城を逐電して、家康の許に奔りおった」
と憎々しげに毒づいてみせた。
軍使の顔は見る見る青ざめていった。軍使は二人を縛っている荒縄を解くのも忘れ、急ぎ作手へと取って返した。
「粗忽者め。縄ぐらい解いていかんか。それにしても定能、強かふん縛りよってからに」
道紋は軍使の背中を見送りながら呵々と大笑したのであった。
作手に着陣していた典厩信豊と土屋昌続の陣は、奥平父子出奔の報せを得て大混乱に陥っていた。
「奥平一党を欠いたとて如何ほどのこともござらん。作戦を継続して家康を討ち取ってしまいましょう。さすれば奥平父子など後で探し出し殺してしまえば良いだけのこと」
「いや、しかし何処に雲隠れしたか見失っている以上、背後から衝かれる恐れがなきにしもござらん。作戦を継続するにしても、その恐れを完全に取り除いてからでなければ動くに動けませんぞ」
典厩信豊は作戦継続を主張したが、昌続は慎重論を陳べてなかなか結論が出ず、結局奥平父子の探索を優先するという結論が下されたときには、家康を挟撃する絶好の機会は失われていた。奥平父子の通報によって挟撃を恐れた家康が付城の防備を固めたためであった。
家康はしぶとく長篠城包囲を継続し、室賀満正の親族壱叶と三かりは下之郷大明神に対し、長篠籠城衆の戦勝ではなく、満正の無事の帰還を願うほどであった。この願いが諏方大明神に通じたためか、九月七日、室賀満正等の長篠籠城衆は生きて城を出ることに成功する。それは壱叶と三かりの願いどおり、包囲の徳川勢を破ったからではなく、城方が抵抗を諦め開城したからであった。長篠城を巡って周辺に甲軍がうようよしている時節であって、攻城戦を長引かせることが自らにとって何ら利とならないことを知悉する家康は、城将及び城兵の助命を受け入れている。
ここで甲軍に信じられない齟齬が生じていた。馬場美濃守から、東海道西進中の山県昌景に対して長篠開城の連絡が入っていなかったのである。いや、おそらく馬場信春は長篠開城を山県昌景に対して連絡したことだろう。しかし家康による街道封鎖も同時におこなわれていたために、それを知らせる馬場隊の使者が殺されるか妨害されるかして、連絡が途絶したものに違いなかった。軍を分散させすぎたことによる弊害である。
長篠開城を知らぬまま漫然と西進していた逍遙軒信綱が遠州森に差し掛かったとき、やにわに敵襲を受けた。兵を伏せて待ち構えていた家康麾下本多作左衛門尉重次、本多平八郎、榊原康政等の奇襲である。信綱隊は散々打ちのめされて反撃の手もなく潰乱しはじめた。これを見た後続の穴山玄蕃頭信君や一条信龍が後方から逍遙軒信綱隊を支えたので、辛うじて全軍潰乱には至らなかったという。
兎も角も敗戦は敗戦であり、連絡途絶という不測の事態に見舞われる弊を顧みないで軍を分散しすぎたこともその敗因には違いなかったが、武田首脳部は裏切った奥平父子に憤怒を集中させた。
勝頼は於ふうと仙千代丸の処刑を命じた。しかもそれは甲府においてではなく、奥平氏の勢力圏だった鳳来寺まで両名を引き出しておこなわるという念の入れようであった。両名とも磔刑に処されたとする史書が多いなか、地元には仙千代丸は鋸引きだったとする伝承が残されている。いずれにしても鳳来寺において死刑執行されたことは間違いなく、武田家と奥平父子は互いを不倶戴天の敵と思い定めるに至る。
将来の大戦の火種は、斯くして蒔かれたのであった。