家康反攻(三)
駿河を荒らし回った家康は遠州諸城を次々と奪還し、五月半ばには長篠城の目と鼻の先にある吉田城に入城した。信長の意を受けた家康が、作手亀山城に在城している奥平父子に調略の手を伸ばしたのはこのときのことだ。前述のとおり奥平父子は武田家主導による、自家に有利な形での牛久保問題解決を諦めており、甲府に残していた信昌妻子の命も省みず徳川方に転じることを決意していた。家康は奥平父子の寝返りを喜んだ。長篠城攻略を決意したのも、牛久問題の競合相手である田峯菅沼定忠の本拠地田峯城を、ゆくゆくは陥落させて、奥平氏による牛久保一円支配を約束する姿勢を示すためであった。
家康は周到な準備を経て、信濃国衆伊奈松尾城主小笠原掃部助信嶺、室賀満正、長篠菅沼正貞、同満直、同新兵衛尉等の籠もる長篠城を三千の兵によって攻め囲んだ。久間山砦、中山砦等の付城を構築して長篠城に圧力を加え続けている。
この報せを聞いた勝頼は喜んだ。
「敵は長篠城を攻め囲んだことで自縄自縛に陥っておる。長篠城を餌に、年来の憂さを一挙に晴らせ」
と命じたのである。
勝頼は家康に長篠城包囲を継続させるため、作手亀山城の奥平父子に宛てて手紙を書き送った。
「長篠城は天嶮でありそう簡単には陥落しない。出来るだけ籠城戦を長引かせ、家康を釘付けにしておくよう算段せよ」
という内容であった。
同陣していない勝頼の下知を受けるまでもなく、本戦役の実質的な総大将であった山県三郎兵衛尉昌景は家康本隊に対する二重包囲の策を実行に移していた。それは、馬場美濃守信春を鳳来寺に進出させて長篠城後詰となし、更に同所から武田典厩信豊及び土屋右衛門尉昌続を作手方面に西進させ、奥平父子を糾合して東に転進するというものである。馬場隊及び信豊・土屋隊の挟撃を恐れる家康は遠江方面に退くはずである。こうなれば長篠城救援が果たされると同時に、駿河から西進させる予定の昌景自身と一門衆を中心に据える主力部隊が家康本隊を撃滅するという作戦案であった。
確かにこれが上手くいけば家康は遙かに多勢の甲軍により各方面から包囲攻撃を受け、手もなく練り倒されるであろう。家康本人を討ち取ることすら不可能ではなかったかもしれない。
ただ、即時の連絡手段に難があった当時においては、軍を徒に分断して連携を欠く恐れがあったことも否めない。信玄がこのような戦術を多用したためか、このときの甲軍が採った戦術も煩雑きわまりないものであった。
この作戦が立案されたころ、出所不明の噂が武田陣中で囁かれていた。
「奥平父子が謀叛を企てている」
というものであった。
奥平父子が牛久保領有問題に関して武田家に不満を抱いていることは、武田上層部にとって広く知られた事実であった。奥平父子謀叛の情報に蓋然性を嗅ぎ取った典厩信豊と土屋昌続は、着陣していた塩平城に奥平定能を召致した。
「貴殿に謀叛の噂が流れておる」
いつもであればじっくり下調べをして、証拠となる文面なりを入手してからおこなわれる尋問も、出陣中という危急のときにおこなわざるを得ない以上、そのような悠長なこともしてはいられない。なので昌続は証拠も何もない状態のまま、このような単刀直入なものの言い方で定能を問い詰めるより他になかった。
定能は殊更に驚いたような表情を示し、
「それは心外な物言い。嘘を申しても詮ないことですので正直に申し上げますが、確かに当家は牛久保領有を巡って御家に上訴致しました。この問題の対応について御家に対し不満があることは確かです」
と、牛久保問題に関する不満を織り交ぜながら
「しかし御家が法度を旨とし、訴えを容れて詮議なされた結果について不満を申し立てても致し方ございますまい。先の上訴は、当家の立場を御家に対して明示しておき、先々に備えるためのものです。そもそも諸人に不満もなく所領を分配出来るのなら、今の日本国のように国が乱れるというようなこともございますまい。不平不満はつきものです」
と、敢えて奥平家の不満を否定しなかった。そして、その最後に
「それとも土屋様におかれましては、当家が謀叛を企てているという、何か証拠でも持っていらっしゃるのですか」
と定能は言ってのけたのである。
もとより証拠などなく、単なる噂話に乗っかって尋問に及んだ土屋昌続である。斯くも理詰めに反論されると、これ以上の突きネタもなく定能を釈放するより他になかった。
定能は、まるで余裕綽々、勝者のような背中をして塩平城の陣を、居城作手亀山に向けて帰って行ったのであった。




