家康反攻(一)
「奥平定能が武田家による牛久保裁定に不満を抱いているらしい」
という報せは、徳川家康を経由して織田信長の許にももたらされていた。このころ、畿内各所で叛旗が翻り、危機に陥っていた信長であったが、三月に入り東から迫っていた甲軍が俄に取って返したとの情報を入手して、諸敵掃討に取り掛かっている時節であった。
「もし、余が信玄坊主であったなら」
信長はそのように考えると心胆の寒くなる思いであった。
信長が考える信玄は三方ヶ原戦勝後、軍を休めることなく一挙に尾張へと雪崩れ込むのである。畿内にあって各所の敵を相手に歴戦する信長は尾張に侵攻した甲軍を討つべく畿内の将兵を糾合し、麾下の誰かは知らぬ、殿軍を置いて取るものも取りあえず尾張へと踵を返すことを選ぶだろう。だがその進軍中、麾下将兵は櫛の歯を引くように欠落ち、畿内出身者は本貫地へ向けて、濃尾出身者は所領安堵を願い出るため武田陣中へと降伏を申し出、戦陣を組めなくなった信長は尾張での決戦を諦めて岐阜籠城を余儀なくされたに違いない。そうなれば今ごろ自身の命はないか、または幸運にして生き残っていたとしても武田方が築いた付城群に岐阜を包囲されながら落城のときを今日か明日かと指折り数える日々だったに違いないのである。
だが甲軍破竹の快進撃は、それこそ攻勢初期の三方ヶ原合戦までであった。越年から撤退に至るまでの進度は遅々としており、信長がもっとも恐れた尾張への侵攻も未遂に終わり、あまつさえ信玄は信濃に向けて撤退を開始するに至る。
自分を信玄の立場に置き換えて考えた場合、これは信長にとってあり得ない選択であった。
「信玄は死んだのではないか」
それ以外に武田勢が撤退した理由が思い当たらなかった。
兎も角も好機である。信長はこれを機に蜂起した諸敵の掃討を本格化させている。
一方で甲斐に帰国した武田方に、まったく注意を払わなくなったわけでもない信長である。信長は家康に対し、信玄死去の風聞を報せると共に、境目の動静をつぶさに報告するよう求めた。そのなかで家康からもたらされたのが、牛久保領有を巡る山家三方衆、就中奥平定能が抱く鬱憤であった。
信長は書斎に一人籠もって、徳川からの使者を長く待たせた。書斎から出て来た信長は何やら書き込まれた判紙を手にしていた。思い浮かんだ考えを書き付けた紙と思われた。
信長は徳川からの使者に対し、
「武田が山家三方衆の牛久保領有問題を有耶無耶にするのならば、我等は奥平定能に牛久保のすべてを与えることを約束しよう。奥平殿の求め次第では徳川殿は勿論、余自ら起請文を認め提出しようではないか」
信長が提示した内容は、境目の一国衆に対しては破格の条件といえた。強固な武田領国に風穴を空けるためには、信長は奥平が求めるすべてを与えるつもりでいたのである。
無論、奥平定能はこの条件を前に垂涎した。
ただ、武田を裏切るとなると問題がある。定能嫡男九八郎信昌の妻於ふうと仙千代丸が、人質として甲府に所在していたからである。徳川に転じたとなれば人質の命はまず助からないだろう。
奥平父子は日夜談合した。
田峯菅沼定忠相手に、牛久保領有について結論の出ない衆中談合を繰り返すか、いっそのこと徳川方に転じて、弓矢によってこれを取り返し力尽くで領有するか。
前者は既に行き詰まっていた。いくら話し合いを繰り返してももはや金槌論であり、同じことの繰り返しであった。両者の主張に根拠があるため、武田家としても理非を問わずどちらか一方の主張を全面的に支持し、強権を発動する以外に解決方法がなくなっていたのだ。だがかかる裁定は不利な側を敵方に追いやることを意味していた。武田家としても、牛久保問題に関しては行き詰まっていたといえよう。
では、徳川に転じた場合はどうか。
前述のとおり、甲府に置いてある於ふうと仙千代丸は諦めなければならないだろう。この二人の命と引き替えに牛久保領の一円支配が約束されるというのであれば二人も死に甲斐があるというものだが、武田家は人質の処刑と連動して牛久保を田峯菅沼家のもと一円支配するに違いない。そうなれば奥平家としては徳川の力を借りて弓矢によってこれを取り返さなければならなくなる。きっと大量の血が流されるだろう。
父子にとっては後者も逡巡する選択肢であった。
「やむを得ん。最後にもう一度、御家(武田家)へ上訴しよう。それでも我等の主張が受け容れられぬなら、徳川に転じようではないか。信昌それで良いか」
九八郎信昌はしばし瞑目した。牛久保を巡る問題については武田家の立場は既に明確である。即ち、山家三方衆が自らの意志で主体的にこの問題を解決することだ。上訴に踏み切ったからとて再審されるとは到底思われぬ。こたえは今から分かっていた。
衆中談合にて解決せよ。
これである。
文字どおり一縷の望みを賭けての上訴である。これが斥けられれば妻子の命は諦めねばならぬ。最後にひと目、二人の姿を目にしたかったと信昌は思ったかもしれない。目を閉じることで、瞼の裏にその姿を見たことであろう。
だが信昌は即座にその想念を振り払った。山家三方衆作手奥平家嫡男として、累代領有を主張してきた牛久保を自分の代で諦めるというわけには断じていかなかった。
「分かりました。さっそく倚学を長坂殿の許に派遣して上訴しましょう」
信昌は決然言い放った。




