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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第二章 家督相続
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信玄卒去(五)

 甲軍は北へと転じた。いうまでもなく病身の信玄を戴いての軍事行動を諦めたためであった。

 信玄の座乗する乗物に、土屋右衛門尉昌続が駆け寄り下馬して折り敷いた。

「大山崎惣中より、禁制を求める使者が参っております」

 乗物の小窓が内側から開かれた。

 右衛門尉が書状を差し入れる。しばらくすると乗物の中から弱々しい声で

「諸役免除については承ったが、禁制は遠国ゆえに発給を見合わせておる、と回答せよ」

 と聞こえてきた。

 信玄は大山崎惣中に回答する責任者を指名しなかった。本来であれば勝頼が大山崎惣中に対して回答すべき立場にあるはずだったが、そのことを当然と考えているためか、病篤くそのことにまで考えが至らなかったためかは知らぬ、回答者を指名することなく、回答内容を土屋右衛門尉昌続に伝えるに留めたのである。

 土屋右衛門尉は大山崎惣中への回答方法について板坂法印と談合した。

「当然、跡目の勝頼公に回答願うべきと考えますが」

 という法印に対し、右衛門尉が言った。

「それがしとて何も不安がなければ法印殿に相談することなどありません。このごろの勝頼殿には危ういところが見えます。だからいま相談しているのです。御屋形様の病が篤く、御静養賜らねば御命が危ういという折に、行軍継続を主張するなどそれがしの危惧も極みに達しましてござる。もし勝頼殿の口上伝こうじょうづてに回答などすれば、御屋形様の御下知とは裏腹に、その場にて禁制を発給するなどと称し、外に対して上洛継続を宣言致しかねません。それがしが恐れるのはその点です」

「まさか、そのようなこと」

 法印は、思いもよらぬことだとでも言いたげであったが、土屋右衛門尉があまりにそのことを危惧するので、遂に両者打ち揃って大山崎惣中に

「諸役免除は承ったが、禁制は発給しない」

 旨を回答したのであった。

 無論、このような経緯いきさつは勝頼には知らされなかった。信玄を失いつつあるなか、後継者勝頼の権威は確立されることがなく、武田家は分解の危機に陥りつつあったのである。

 その勝頼を失望させたのは信玄の遺言であった。

 信玄は勝頼をはじめとする諸将を枕許に招集し、

「我が死は三年秘すること。三年の内は対外戦争を控え国力を充実させること。信長が攻め寄せてきたら信濃に引き摺り込んで一撃を加えること。家康に対しても同様に対処すること。氏政は昨今当家との同盟再締結を望んできたが、余の死後は必ず裏切るのでその覚悟をしておくように」

「勝頼は我が嫡孫信勝元服までの陣代とする。信勝が元服すれば家督を譲ること。勝頼は孫子旗、八幡大菩薩旗、将軍地蔵旗を使用してはならない。これまでどおり『大』の小旗を使用せよ。諏方法性兜は信勝元服の折に譲り渡す」

 といったことを遺言したのである。

 諸将は信玄が遺言を残したということで取り乱し泣き崩れる者もあったが、勝頼はそれどころではなかった。信玄の勝手な言い分に内心怒りを感じていたのだ。

(父の都合で高遠諏方家から武田に復姓させられた挙げ句に陣代扱いとは。あのような遺言を遺されては、手足を縛られて泳げと言われているようなものではないか)

 勝頼の怒りはもっともであった。

 兄義信が亡くなって以降、それでもなんとか武田の舵をとることが出来る、と勝頼が気を取り直したのは織田信長との強固な同盟関係があったからだ。足利義昭を奉じて幕政の中心にあった信長と協力関係を保ち、義昭政権のいわば関東支部として存続する道が確保されていたからこそ、勝頼は武田家の運営に自信を持っていたのである。

 信玄はその甲尾同盟を自らのおこないによって破壊したのみならず、勝頼を陣代として定めたのである。土屋右衛門尉と板坂法印による大山崎惣中への回答は、

「勝頼は飽くまで代理に過ぎぬ」

 という抜きがたい深層心理が家臣団に植え付けられてしまった証拠に他ならなかった。

 元亀四年(一五七三)四月十二日、甲斐国に入国も果たさぬ信州駒場において、武田信玄は死亡したと伝わる。享年五十三であった。

 勝頼は遅々として進まぬ軍中、父の死を知った。

「最期の御様子は如何であったか」

 身辺を固めていた土屋右衛門尉に尋ねると、乗物の中から叫び声が聞こえ、しばらくして引き戸の垂れが内側から押し開かれた。乗物の傍らに折り敷いて御諚を承り、山県三郎兵衛尉殿を呼び出された御屋形様は

「明日は、我が旗を瀬田に立てよ」

 と御下知あそばされてのち卒去された、ということであった。

 勝頼はその最期の様子に耳を傾けながら、胸の空くような思いを隠していた。信玄が最後にあたり何ごとかを叫んだという事実に思い当たることがあったからである。

 死の淵にある信玄に叫び声を上げさせた者を、具体的に言い当てることは勝頼には出来なかった。なぜならばそれは、今生と幽冥界との境目を漂う父の目の前に現れた兄義信だったのかもしれないし、その他父のために死へと追いやられた叔父信繁をはじめとする一門だったのかもしれない。いや、そうではなく勝頼の祖父諏方頼重か、或いは高遠諏方頼継かもしれないからであった。心当たりが多すぎて、言い当てることが出来なかったのである。

 だがひとり、最期のときを迎えようとする信玄に叫び声を上げさせるだろう者に勝頼は思い当たっていた。それは他でもない、母於福であった。於福は中途半端ともいえる形で西上作戦を諦め本国に帰ろうという信玄を詰り、軍を西に向けるよう求めたのであろう。信玄はその於福の姿に恐怖して、叫び声を上げたに違いないのだ。

 そう考えただけで勝頼は、胸の空くような思いを感じたのであった。きっとどこか晴れやかであろう表情を悟られまいと、殊更沈痛な面持ちを作ったのであった。

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