信玄卒去(三)
信玄一人を奥の間に横たえ、勝頼を筆頭に一門及び譜代重臣が車座となって対応を相談していた。
「本国へと帰還するより他にないと考えるが如何に」
山県三郎兵衛尉昌景や馬場美濃守信春の意見に、大方は賛同であった。
確かに信長を撃砕する好機ではあった。西では武田の勢いに飲まれた義昭が反信長に転じていたし、織田勢の多くが本貫地を有する尾張の喉元に匕首を突き付けていたのは長島砦に立て籠もる一向一揆勢であった。越前の再出馬も噂されていたし、なにより京畿の各勢力は既に甲軍の上洛を見越して、禁制の発給を求め頻りに運動している時節であった。大小の味方が武田の下に参集しようとしていたのである。
だが信玄の体調はどう考えてもこれ以上の在陣に堪えうるものではなくなっていた。本国への帰還は、信玄の恢復を願う重臣の総意といえた。
元亀三年(一五七二)十月を起点とする信玄による三遠東濃方面に対する攻勢が、上洛を最終目標に据える西上作戦であったかどうかは武田氏研究においてしばしば議論の分かれるところである。
甲陽軍鑑などでは生前の信玄が
「余は少しでも健康を保っているうちに、遠江、三河、美濃、尾張に発向して、命あるうちに天下の政務を執りたいと考えておる。このことは皆にも常々語ってきたところである」
と、上洛について言及する場面が描かれているし、死に際して錯乱しながら
「明日は我が旗(孫子旗)を瀬田に立てよ」
と下知したとも伝えられている。少なくとも信玄個人としては上洛を求めていたという書きぶりだ。
ただこのころの武田家が上洛の好機にあったとはいえ、眼前に横たわる織田の大領土を横断して京畿に至るためには兵站上の問題が大きすぎて物理的に不可能だったとする意見も根強い。確かに発向以来四箇月を閲してなお、軍の先鋒は尾張表どころか浜松の家康ですら屈服させてはいなかった。たとえ上洛を希求していたとしても、この年の軍事行動は純粋に東海方面における領土拡大を目指した局地戦ではなかったかとする意見である。
山城国乙訓郡大山崎惣中が、甲軍による乱妨狼藉の禁止と免税権保障の禁制発給を武田家に求めたのが、元亀四年(一五七三)三月下旬のころであった(離宮八幡宮文書)。このとき甲軍は既に作戦の続行を諦めて帰国の途に就いており信濃に入っていたから、大山崎惣中の放った使者は、京を目指しているとばかり思っていた甲軍が信濃をうろついていることに困惑しながらも禁制発給を武田家に求めたことであろう。
武田家が各方面に上洛を喧伝していたことは、大山崎惣中が禁制発給を求めた事実からいってもどうやら間違いなさそうである。惑説を流して敵領内の住民の間に恐慌を引き起こすことなど、情報戦の一環として当然におこなわれることであった。これに三方ヶ原戦勝の噂が加わり、武田家に禁制発給を求めるという現実の動きとして歴史に表出したのが、この文書なのであろう。
ただ信長の立場から見れば、惑説、噂話とはいっても、在地の人々が一斉に敵方に靡けば領国の維持が忽ち難渋することに間違いはなく、無視できない問題であった。大山崎惣中の動きはその前兆を示しており興味深い。織田領国はこのとき、間違いなく瓦解の危機にあったというわけだ。
因みにこのとき武田側で大山崎惣中に対応したのは土屋右衛門尉昌続と板坂法印であった。
彼等の回答は
「遠国ゆえに禁制発給には応じられぬ」
というものであったという。
撤退中の信濃においてではなく、三方ヶ原戦勝直後あたりに禁制発給の求めを受けていたならば、武田側の回答はどうなっていただろう。興味のある話だ。
「ここまで来て軍を返すか」
勝頼は車座の中で呻吟した。
それは本当に心の底から無念に思ったためにこぼれた言葉であった。勝頼には先々の武田家の苦労が目に見えるようであった。信玄がこのたびの戦役で国内から掻き集めた金は七千両にも及ぶ大金であった。これは前後に類例のない巨額の軍資金であり、これだけの大金を徴収するために人々に課した税は極めて重く、軍役衆のみならず民力の疲弊も甚だしいものがあった。武田家が、二度と再び同額の軍資金を集めることが出来るだろうとは到底思われないものであった。したがって今後おこなわれるであろう武田家の軍事行動は、今回の西上作戦を頂点としてあとは衰えていくばかりだと勝頼には思われたのだ。