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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
前の巻 第二章 家督相続
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信玄卒去(一)

「野田城を攻め囲むのだ」

 信玄は病床にあって息も絶え絶えに命じた。牛久保領分配を巡る不満からか、徳川に再び転じた野田菅沼定盈を討つためと思われた。

 信玄が無理矢理にでも床を払い、野田城攻撃を命じたことは、勝頼をはじめとする群臣を安堵させた。というのは、このたびの戦役で武田家は織田家との手切てぎれに及び、信長との戦いが今後にわたり予定されている時節、その戦いの火蓋を切った当の本人が病に倒れるということは、その後始末あとしまつが自分達に押し付けられるということを皆が良く理解していたからであった。

 武田家は容易ならざる敵との後戻りの出来ない戦いに踏み込んだのであり、いまが短期決戦の千載一遇の好機であった。多少の無理は承知の上で軍を動かし続けなければならなかった。なので刑部村の陣を払い宇利峠を越え、野田城に向かう道中も信玄の病篤く、宿泊を繰り返して滞りがちだった行軍は、ともすれば勝頼他群臣共の心の裡を昏くした。

 甲軍が攻め囲んだ菅沼定盈の籠もる野田城は、北の桑渕、南の龍渕を天然の水濠とし、大手を構える西から順に三の丸、二の丸、本丸を構える連鎖式山城である。構造は極めて簡素であり、そのゆえは菅沼定盈がほんらい本拠地として構えていた野田城はこのとき改修中で籠城戦に堪えられないと判断されたからで、定盈が代わって籠もり、甲軍の攻撃目標となったこちらの野田城は、通称大野田城と称される簡素な詰城つめじろに過ぎなかったからだ。

 いずれにせよ「藪の内の小城」と呼ばれた小城塞に籠もる僅か五百名あまりの人々の命運は、甲軍二万七千の前に風前の灯火であった。

 信玄はこのような取るに足らない小城を攻めるに当たっても、自らが在陣している以上は采配を他人に委ねようとはしなかった。痩せ衰えた身体を引き摺るようにして本陣の床几に腰掛けて、いつものとおり攻撃開始の采配を振るうことにこだわった。だが病状の急速な悪化は、信玄に具足を着込むことすら許さなかった。

 典厩信豊が信玄の身体を支えながら

「采配は我等にお任せ下さいませ」

 というと、信玄はかえって

「それでは試みに問うが、汝はあの城を如何にして落とすつもりだ」

 と信豊に問うと、もとより歯牙にもかけぬ小城であり小勢である。

 信豊は迷うことなく

強攻こわぜめに訴え鎧袖一触屠って見せます。一両日中にはけりがつくでしょう」

 といつもながら強気のこたえを口にすると、

「やはり余が采配せねばならんか。勝頼とよく談合せよ」

 と再考を促した。

 信豊からこの遣り取りを聞いた勝頼は嘆息した。

(この期に及んで父は、時間のかかる土竜もぐら攻めをせよと仰せか)

 勝頼にとって信玄の意図は明白であった。信玄は兵の損耗を恐れているのだ。来るべき信長との決戦に備えるためかは知らぬ、兵の無用の犠牲を恐れ、信豊が献策した強攻めを斥けたのであろう。

 だが勝頼に言わせれば刻々と失われていく時間こそ重要であった。兵は行く先々で調達できる見込みがあった。このままの勢いを保ち戦勝を重ねれば、一族郎党を率いて参陣を望む在地勢力の出現を期待出来るからであった。しかし時間はそうはいかなかった。それは失われてしまえば二度と取り戻すことが出来ない代物であった。

「父は土竜攻めを敢行せよと仰せなのであろう」

 勝頼は渋々といった様子で典厩信豊にそう告げると、帯同していた金山衆をさっそく集め、その準備に取り掛かった。やはり勝頼は自らの不甲斐なさに歯嚙みした。土竜攻めの判断の善し悪しは別にして、すべては信玄の思いどおりに進んでいたからだ。いくら勝頼が失われていく時間を惜しんで歯嚙みしたとしても、自分の命令に背いてまで強攻めに訴えることなど不可能だと信玄は看破しているのだろう。事実そのとおりであった。

 勝頼は信玄が敢えて時間のかかる土竜攻めを暗に命じた他の理由に思い当たった。信玄は兵の損耗をいたずらに恐れているだけでは決してない。

 父はこの在陣中に、病で死んでしまうつもりなのだ。敢えて過酷な環境である戦場に病身を置き続け、陣歿して果てるつもりなのである。自らが引き起こした難しい問題――それも一つや二つではない――の解決を他に押し付けるだけ押し付けて、自分は死んで、その問題の処理から逃げてしまうつもりなのだろう。そうなれば信玄は、戦いの中で生涯を終えた名将という不動の名声を得ることになるのだ。何かにつけて信玄と比較され、後継者たる自身の統治が困難を極めることが予想された。

 それを防ごうと思えば野田城など強攻めに訴えてそれこそ一両日中に落としていまい、信玄を無理にでもここへと押し籠めじっくり治療に当たるべきではないかと勝頼は思った。

 しかし現実には、強いてそのように采配したとして勝頼のその下知に従う者が何人あるか知れたものではなかった。勝頼下知は信玄の采配を絶対視する一門或いは譜代重臣に黙殺され、後継者としての勝頼の権威は致命的なまでに失墜することが予想された。 

 信玄の死が差し迫ったこの期に及んで、自らの思いどおりに采配できない我が身を顧みると、勝頼は歯嚙みせざるを得なかった。

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