西上作戦(三)
(何故このようなことになってしまったのであろうか)
次第に遠のいていく府第(躑躅ヶ崎館)を時折振り返りながら、勝頼はそのような考えを振り払うことがなかなか出来なかった。
突然の外交方針の変換が通達されてから、年が改まった元亀三年(一五七二)十月、信玄は遂に満を持して甲府を出発した。無論、上洛という年来の野望を遂げるためであった。満を持して、というのは、この出陣に先立ち信玄が、かねてより望んでいた権僧正の僧階を本年七月に得たことを指している。信玄は僧正位に昇ることにより、叡山焼討という挙に出た信長糾弾の名目を得たわけである。
ただこれには世間の目は冷たかった。
これまでも数多のいくさを惹起し一門の多くを死に追いやり、権謀術数の限りを尽くして諸敵を葬ってきた信玄である。このたびの出陣に先立って、甥にあたる今川氏真を駿河から放逐した行為も、世間にはよく知られた信玄悪行と呼ばれる行為のうちの一つであった。
これだけの所業を重ねておきながら昇ることの出来る僧正位とはいったい何なのか。世上はもっぱらそのような噂で持ちきりであった。それでも信玄は恥じるどころか満足そのもののように、勝頼には見えた。自分を含め信玄を恐れる近臣の、誰一人として諫言できる者がない父を取り巻く環境と、兄義信の呪いによって、信玄が分別を失いつつあると勝頼には思われた。
信玄の無分別ともいえる政治判断は他にもあった。これは信玄が権僧正に昇ったのと同月、七月のことであった。このころともなると武田家中においては三遠出兵に向けて既に活発な動きが展開されていた。信濃と国境を接する奥三河に勢力を扶植し、徳川に従属していた山家三方衆に対して信玄がさっそく調略の手を伸ばしたのだ。
これは田峯菅沼氏、長篠菅沼氏、作手奥平氏の三氏を指して山家三方衆と呼称したものであるが、奥三河に根付いてから、それぞれの嫡流に加えて田峯菅沼氏からは野田菅沼氏、長篠菅沼氏からは岩小谷城主菅沼氏、作手奥平氏からは名倉奥平氏、日近奥平氏など多くの傍流が派生して離合集散を繰り返している混沌とした情勢であった。一応宗家は田峯菅沼氏であり、当代は刑部丞定忠であったが、利害が対立すれば宗家に対してもその統制に従うことなく公然と楯突く気風は山間に居住する地侍の持って生まれた性質とでも評すべきであろう。
大国武田からの調略を前に、三氏は一応足並みを揃えて武田に内通する道を選んだ。だがここで三氏のうちから抜け駆けする者が現れる。野田菅沼氏当主菅沼定盈である。
定盈は三氏の間で領有が問題となっていた三河国宝飯郡牛久保に自身が保有する所領の安堵を信玄に求め、ひとりでも多くの味方を得たい信玄はこれを了承した。定盈は当然この安堵状を牛久保の領有権を争う他の一族に示したことだろう。負けじと動いたのは作手奥平氏の当代九八郎定能であった。定能は定能で、牛久保全域を本領として安堵してもらおうと武田に申請したのだ。
なお牛久保領を巡っては田峯菅沼氏も領有を主張しており、田峯菅沼定忠からも武田家に対し似たような申請がなされたものと考えられる。
これに対し武田家では、先に安堵を申し出た菅沼定盈の領有する牛久保領を除いて定能に牛久保を安堵するという内容の知行宛行状を発給した。しかし奥平定能が武田家に求めたのは、菅沼定盈が領有を主張する牛久保領も含めた全域領有のはずである。そのことは信玄とて理解していたはずであった。だが信玄はここで、牛久保領を巡る野田菅沼定盈と奥平定能、それに田峯菅沼定忠も加わっていただろう、彼等の対立の根本的解決を図ることなく、衆中談合による自主的解決を促すだけで自身は早々に問題から手を引いてしまったのだ。
勝頼にはこの信玄のやりようが、無分別、無定見なものに思われた。
思えば信玄は諏方惣領家と高遠諏方家の間に生じていた惣領職を巡る問題についても、玉虫色の措置を採っただけで根本的な解決を図ることがなかった。
そんな信玄に対し、生前山本勘助がその隻眼で若き日の信玄を見据えながら
「京の都へと引き退かれるがよい。天下人となられよ。そうすれば、都まで追ってくる諏方や高遠ではありません」
と言い放ったことを勝頼は知らなかった。知らなかったがもしかしたら父は、山家三方衆の抱える矛盾をも包含しながら、京都まで引き退き、武田家が抱えるあらゆる問題の解決から逃げようと企んでいるのではないか、と勝頼には思われたのであった。そのような動機がこのたびの出陣に含まれているだろうことを思うと、勝頼は
(何故このようなことになってしまったのであろうか)
という思いを払拭することが出来なかった。
 




