駿河侵攻(三)
永禄十一年(一五六八)十二月六日、信玄率いる甲軍一万二千は駿河へと雪崩れ込んだ。これに対し今川氏真は有力国人庵原安房守をはじめとする今川軍一万五千を薩埵峠に配置し、氏真自身も清見寺まで進出して、両陣営は同十二日に対陣に及ぶ。
しかし、内通の事前工作が仕掛けられていた駿河衆は戦う前から戦意を喪失しており戦陣を離脱する者数多、対陣の翌日にはあれだけ溢れかえっていた駿河兵はまったく姿を消してしまい、甲軍は一兵も損なうことなく易々と駿府に入ったのであった。
諸国の人々が恐れる武田の軍兵と聞いて、駿河の人々は幼い子どもを引っ抱え着の身着のまま取るものも取りあえず逃げ惑っていた。これなど身分の上下を問わず氏真とその妻早川殿も同じような体であり、早川殿の逃避行に輿車を準備することが出来ず、徒歩裸足で掛川までの道のりを歩かねばならぬほどであったという。
なお、後日小田原に逃げ込むことに成功した早川殿より、その逃避行を聞いた北条氏康は激怒して、盟約を破った武田に対し更なる強硬路線を敷くことになる。
さてそのころ勝頼は馬廻衆数騎を従え、戦火に焼かれる駿府を督戦しまわっていた。
勝頼の目の前に繰り広げられる情景は敗者の惨めを醸すに十分であり、これは今は亡き母より幾度も聞かされた上原落城の情景と重なるものがあった。
なので勝頼はかかる情景を前に
(いくさには何としてでも勝たねばならぬ。負けて良いいくさなどあろうはずがない)
という思いを新たにしたのであった。
そこへ駆け寄せてきたのは、逃げる敵が遺留したと思しき指物を持った安倍宗貞であった。
「殿、御覧じろ。今川の侍は累代の武具や指物まで捨てて逃げ惑ってござる。惨めこの上ない。それがしこれより敵中駆け入って、骨のある相手を探して参ります。御免」
安倍はそのようにいうと、勝頼が止めるのも聞かず逃げ惑う敵中に騎馬を乗り入れて
「そこもとらが棄てた武具の類いは先祖伝来のものであろう。また、指物の倒れたるは指物衆の恥とするところ。今川軍役衆の誇りを打ち棄て、何処へ去ろうというのか」
と呼ばわった。
すると殆ど赤裸に近い姿でその場を逃げだそうとしていた今川の侍が勝頼の方を振り向いて曰く、
「戦の勝敗は武門の常で、恥とするには当たらん。汝等とて兵馬を動かせば斯くの如き憂き目を見ることもやがてあろう」
と吼えたあと、更に
「信玄公と申せば氏真公の叔父にあたるお方。その氏真公を滅ぼそうとするは、今川累代の宝物を欲する故の所業か。追い剥ぎ同然の行いで、後世必ずや嘲りを受けるであろう」
と罵った。
これは敵中に乗り入れて今川の侍衆を挑発した安倍宗貞ではなく、その主人と思しきひときわ立派な具足を身に着けた将――すなわち勝頼に対し放たれた雑言であって、しかもその父信玄を追い剥ぎ呼ばわりする容認しがたい発言であった。
勝頼はその今川侍に対して
「勝敗は武門の常か。全く以てそのとおりである。したがって、このように勝てるうちに勝ちを拾うのだ」
と応じたあと、左右の者に
「それ、誰かあの減らず口を叩っ斬って、せめてもの手柄といたせ」
と命じると、勝頼旗本衆は寄ってたかってこの今川侍を滅多突きにしてしまい、彼は膾のように切り刻まれて死んだのであった。
このように電撃的に駿河へ侵攻し、緒戦こそ連勝を重ねた甲軍であったが、氏真が上杉輝虎と結んだ盟約違犯こそ駿河侵攻の理由であるという宣伝戦は北条氏康氏政父子には通用しなかった。早川殿逃避行の顛末を聞くまでもなく、氏康は永年の同盟関係を破った武田信玄を許すつもりはなかった。氏康は対武田戦において戦局を有利に進めるべく、不倶戴天の敵ともいえる上杉輝虎との同盟を選択することになる。
東海、関東方面における戦局は、電撃的にこれを併呑するという信玄の思惑から逸れて、さながら泥沼の如き様相を呈し始めたのであった。