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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 最終章 最後の日々
203/205

国破山河在(一)

 勝頼より信濃を下賜されて、小諸から来援するよう下命されていた相模守信豊であったが、一門の下曾根浄喜を頼って小諸城に入った後、その裏切りに遭遇して切腹を余儀なくされた。信豊もまた、他の一門同様に武田宗家を見限って関東に逃れようとしていた矢先の自害なのだ、とする軍記物もあるが、それを裏付ける一次史料は現存していない。兎も角も小諸城において信豊が自刃して果てたことにより、小諸から甲斐に討ち入って奪回する作戦は全く瓦解してしまったのであった。なお、信州筑摩内田郷地頭にして信豊の姪婿桃井将監(もものいしょうげん)も、小諸城において信豊と運命を共にしている。

 越後錯乱以来、武田の最も近い同盟者となった上杉景勝はこの度の甲州征伐に接して、勝頼から援軍派遣の要請を受けている。実際にその部隊を編成して信濃に派遣しようとした形跡はあるが、続々と伝えられる武田の敗報を聞いて士気が阻喪したものか、上杉援兵が織田方と交戦した記録は残されていない。景勝自身に勝頼救援の意図があったとしても、あまりにも戦力差が大きすぎて援兵を送り込んでも如何ほどの助力にもならなかっただろう。各個撃破されて犠牲者を増やしただけだったかもしれない。 

 五郎信盛が越後頸城郡根知城代の任を解かれた後、代わってこれへと入ったのは八重森昌家であった。八重森は木曾謀叛以来聞こえてくる信濃一変の政情と勝頼の危急を聞いてこれを救援すべく、勝頼への伺いも立てずに独断で兵を引率し根知城を発向した。景勝が信越国境に配備していたという援軍と合流するためであった。しかし先述のとおり景勝は遂に動かず、八重森昌家の忠節も不発に終わっている。

 武田家にとっての有力なもう一つの同盟国に、常陸の佐竹義重があった。ただ同盟国とはいっても甲佐同盟の想定する主敵は小田原北条氏であって、この度の甲州征伐において主力を成した織田家は佐竹義重にとっては同盟相手でもあった。佐竹にとって甲州征伐は、同盟国同士の争いだったというわけだ。それに勝頼を救援するには常陸はあまりにも遠隔に過ぎた。

 義重にはいて勝頼に生き残ってもらわなければならないという必要性はなかった。武田家滅亡後も、その遺領に織田信長の勢力が伸張し、武田家に引き続いて対北条戦線を担ってくれればそれで十分だったからである。義重は信長との良好な関係を維持或いは構築するために、御坊丸を武田家から奪回し常陸に移して、岐阜へと返したのだった。詐術を用いて御坊丸を奪回し、自家の手柄としたあたり、佐竹義重という人もまた、戦国乱世の梟雄と呼ぶべき人物だったといえよう。

 織田信長は歴戦の武将だけあって老練であった。織田勢は信濃討入(うちいり)以来連戦連勝であって負け知らず、厳冬の気候で凍死者こそ出しはしたが、戦闘で兵を損耗することが殆どなかったにも関わらず、

「武田方が下伊那で織田勢を追い詰め、千余人を討ち取る勝利を挙げた」

 とする流言を飛ばした。

 こういった流言の意図するところは、潜在的に織田家に敵対する者をこういった噂話であぶり出し、この際一網打尽に押し潰してしまうためであった。この策謀に引っ掛かったのが先年の石山戦争で織田信長に対する徹底抗戦を唱え、顯如光佐から勘当の憂き目を見た教如である。教如は信長による甲州征伐に先立って北陸の門徒に勝頼支援の檄を飛ばしていた。越中一向一揆などはその檄を受け、かつ織田勢が下伊那で大敗を喫したという噂話にあぶり出されて蜂起したところを柴田勝家や佐々成政等信長麾下の武将に叩き潰されている。

 このように勝頼は身内に裏切られ続けただけではなく、対外的にもこれを助けようという動きは信長の威勢を前に停滞しがちで鈍かったし、具体的に勝頼支援の動きを示した一向宗門徒などは容赦なく撃砕されている。結果的に、勝頼にとってはまったく勝ち目のない戦いだったわけである。

 しかし勝頼はその運命を甘受して戦うことを端から諦めていた、というわけではなかった。新府城は捨てても抗戦の意図は最後まで捨てなかった。田野における一戦がそのことを示している。

 大きな歴史のうねりの中で、後の歴史について知る由もない勝頼が、なんとかして大きな時代の流れに抗おうとした最期の姿は、既に当時から敵味方問わず多くの人々の胸を打つものがあったらしい。たとえば織田信長は勝頼の首級と対面したときに罵詈雑言を浴びせ掛けたといわれている。なんといっても朝倉義景及び淺井久政長政父子の頭蓋骨に金箔を施して酒盃にしたこともある信長である。罵詈雑言で済めば生易しい方だが、おもむきが異なるのは大久保彦左衛門が著した「三河物語」に紹介されている一節である。そのなかでは信長は勝頼首級と対面して

「日本に隠なき弓取なれ共、運が尽きさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」

 即ち、日本で知らない者のいない大名であったが、運が尽きてこのようになってしまわれた、との所感を述べたというのである。ここには東夷、朝敵を討ち滅ぼして得意絶頂、生首相手に罵詈雑言を口にした暴君の面影は微塵もない。むしろ勝頼に同情的ですらある。

 信長にとって武田勝頼は、間違いなく他の領域権力と一線を画す特別の敵であった。畿内近国のこまごました諸敵など、天下静謐を目指す信長にとって打ち倒して当然の敵であった。

 しかし武田家は違った。

 関東に領土を持つ武田家は東国大名の代表的存在であり、真に倒す価値のある敵であった。信長は勝頼を打倒するために様々な謀略を仕掛けて揺さぶったが、勝頼はそのたびに国内の手当に奔走したり、外交関係を見直して乗り切ってきた。信長にとって勝頼は、まこと厄介な敵だったろう。最終的には朝敵に指定して錦旗を持ち出す「特別待遇」を以て討伐している。信長が陳べたという同情交じりの所感は、勝頼打倒のために要した自らの苦労をねぎらう言葉だったに違いない。

 そういった意味合いからもやはり信長は、勝頼首級を前にして罵詈雑言ではなく

「運が尽きさせ給ひて」

 と、同情的な所感を陳べたものと断じたい。

 その信長の運もほどなくして尽きたものと見える。いうまでもなく本能寺の変のことである。勝頼が田野に滅んで僅かに三ヶ月後のことであった。変に臨んで首謀者たる明智光秀の意向が那辺にあったかを論ずる資格は私にはない。確かなことはこの変によって織田信長と、嫡男信忠の両者が死亡して織田政権というものはまったく瓦解してしまったということだ。

 新府城から幼い三人の姫を連れて必死の逃避行を行った松姫は、信忠が変に伴い二条御所で落命したことを逃亡先の八王子で知る。勝頼が田野に滅んだのを尻目に、松姫一行は関東まで逃げおおせることに成功していたのである。武田家滅亡を巡る惨禍の連続の中で、幼い三人の姫君と松が無事に逃げ切ったことは、暗闇の中にある一筋の光明といえはしまいか。

 婚約が事実上の破談になってからも、信忠と松姫との間に手紙の遣り取りがあって、信忠は妻を迎えはしたけれども側室扱いであったことも当代の人々にはよく知られた話であった。なので北条氏照は織田家の機嫌を損ねまいとして、自領に流れてきた武田の子女を迫害せずむしろ庇護したという。信忠は松姫が八王子に存命であることを知り、手紙を送った。

「必ず迎えに上がります。しばし待たれよ」

 という内容の手紙であった。

 松姫は、実家である武田家を失い、既に政治的影響力をまったく喪失していた立場であったが、元を辿れば信忠と松姫との縁談を進めたのは自分だということを誰よりもよく理解していた信長は、信忠が依然として松姫との結婚に希望の緒を結んでいることを妨害しなかった。信長の正室濃姫も、既に実家である美濃齋藤家を失っており、その政治的影響力は皆無であったが、信長は離縁することなく添い遂げている。こういったあたり、信長という人物の男らしさは際立っている。信忠も、妻と思い定めた女性に愛情を貫き通す信長の、情熱的な血統を色濃く受け継いだのであろう。

 だが前述のとおり織田信長信忠父子を凶事が襲った。

 松姫は八王子にて、信忠からの迎えの使者ではなく、その死を伝える使者を迎えて絶望した。自死も考えただろうが幼い姫達に加え、地元の子供たちに手習いを教えていたことが生きる支えとなり、出家するにとどめた。松姫は信松尼と名乗り、元和二年(一六一六)、享年五十六で天寿を全うする。

 なお、互いに恋い焦がれながら生涯一度として対面することがなかった松姫と信忠であったが、ここにひとつの異説がある。織田秀信(信忠嫡男即ち信長嫡孫)を、信忠と松姫との間に生まれた子だとするものである。これまで縷々陳べてきたとおり、松姫と信忠が直接顔を合わせる機会は一度としてなかった。したがってこれなど伝承俗説の類に相違ないが、二人の悲恋を成就させてやりたかった、という人々の願いの滲み出た、優しい異説ではある。

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