天目山の戦い(一)
小山田信茂の迎えを待つために勝頼一行が駒飼に入ったころ、信茂は都留の人々から恫喝交じりの懇請を受けていた。勝頼を見限って信長に転ずべしという小菅等国衆や地下人達からの懇請であった。
生前、山県三郎兵衛尉昌景より
「若手では小山田信茂、文武相調いたる人物はほかにいない」
と賞賛を得た信茂である。あの山県昌景から賞賛を得たということが、武田家中においてどれほどの価値を持っているか自覚しない信茂ではなく、そのことは彼の誇りでもあった。勝頼の郡内入りを武門の栄誉とし、武田に忠節を尽くして迎える最期を、彼自身も夢見ていた。唐朝に忠誠を誓って「天中山」と顕し、反逆者に殺された顔真卿の如き最期を信茂は望んだのである。
だが考えてもみて欲しい。いくさはもとより一人で戦えるものではないのである。
当代の人々が合戦に参加する動機の一つが利益の獲得であってみれば、勝ち目が全くないといって良いこの度の戦役で、人々が武田を見限ろうという動きを見せたことは無理からぬ話である。
これには勇猛果断を以て鳴る小山田信茂も大いに悩んだ。飽くまで武田に忠節を尽くし、大挙して押し寄せるであろう織田勢や徳川、北条勢を相手に戦って華々しく最期を迎え得たならば、信茂個人としては満足である。だがそのような挙に及ばんか、大変な惨禍が郡内を見舞うことは疑いがなく、第一そのような結果になることが見えているいくさに人々は従わないであろう。それならばいっそ郡内の領民を見捨て、領主たる地位を捨てて個人的に勝頼に従い、一兵卒として死んだならば領民に惨禍が及ぶこともあるまいと思われたが、果たしてものごとはそう単純だろうか。自分が郡内を捨てたといっても、織田信長にとって小山田信茂は飽くまで郡内の領主なのであって、領主が武田に忠節を尽くした以上は、領民もまた同様に武田の味方と見做されるのではあるまいか。そしてそのような段階に至り、自分が死んでこの世にいなければ、一体誰がこの領民達に代わって命を差し出すというのであろうか。信茂は人々の懇請を受けて、最後に至り変心したのである。
このころ、甲斐に入った滝川一益の軍勢は勝頼一行の行方を見失っていた。畿内近国では、新府城を落ち延びた勝頼が二千の軍勢と共に山中に身を隠した、という噂まで流れていた時節である。
人々が武田を見限って、その一行が百名にも満たない小勢になったことが、かえって一行の発見を遅らせていた。勝頼は敵兵の姿が全く報告されなくなったことで、どうやら敵が自分達の居所を見失っているらしいということに勘付いていた。このうえは下手に動かず、郡内からやってくるであろう小山田信茂の援軍を得て、その護衛を受けながら岩殿城に入ることを考えていたものであるが、ここが双方にとって焦れったいところで、信茂は信茂で、勝頼が郡内からの援軍を待って駒飼に逗留していることなどつゆ知らず、何故勝頼は岩殿城に入らないのかと訝しんでいたのである。というのは信茂は既に変心したあとであって、勝頼一行をいち早く岩殿城に押し込めてしまい、足弱で嶮岨を登るのに手間取るであろう人質たる自身の老母をその隙に救い出そうと企んでいたのであった。駒飼まで迎えを寄越すつもりなど、信茂には端からなかったということになる。
信茂は駒飼から都留へと至る道々に関所を設けて出入りを制限すると共に、親族のうちで勝頼の覚えがめでたい小山田八左衛門尉を勝頼の許へ派遣した。勝頼の油断を誘い、八左衛門尉に自身の老母を救出させるためであった。
信茂の意を受けた八左衛門尉は数名の武者と共に、具足も身につけず駒飼の本営を訪れた。勝頼は遂に迎えの使者かと思い、八左衛門尉と面接した。この付近は初鹿野伝右衛門の知行地であったので、勝頼は、曾て長篠敗戦によって落ち延びてゆく自身を、土屋惣蔵昌恒とともに護衛してくれた忠臣初鹿野伝右衛門がこの場にいないことを訝しみ、八左衛門尉に対し
「初鹿野伝右衛門はここへは来ないのか」
と下問すると、八左衛門尉のこたえて曰くは
「郷村の人々が伝右衛門の妻子を抑留し、援軍を出さないよう恫喝しているそうです」
ということであった。八左衛門尉は年来勝頼から蒙ってきた恩義に少しでも報いようと、信茂の裏切りを伝えようとしていた。初鹿野伝右衛門の妻子が村人に抑留された、という話は、言外に
「小山田信茂も同じような立場にある」
ということを言外に含めた言い方であったが迂遠に過ぎた。勝頼は八左衛門尉の暗喩に気付かず、その言葉を言葉どおりに受け止めて一瞬寂しそうな微笑を浮かべた。そして気を取り直したように
「左様か。ところで具足はどうした。そうだ。余の召し替えの具足を着するがよい」
とこれを与えた。八左衛門尉は供の侍に手伝われながら具足を着した。鎧に袖を通しながら、八左衛門尉は堪えきれず涙を流しはじめた。
「同情は無用だ。武門の常である」
勝頼は零落したこの身を憐れんで、八左衛門尉が泣いているのだと早合点してそのようにいうと、具足を着終えた八左衛門尉は涙を拭くこともなく勝頼に対し
「そうではございません。郡内領主小山田信茂の御諚をお伝え申し上げます。主信茂は武田勝頼を領内に迎え入れることは金輪際ないとの御諚」
八左衛門尉が意を決してそのように言うと、その従者も八左衛門尉自身も抜刀してあっという間に周囲の者を斬って捨て、信茂老母を見つけるやこれを担いで一目散に逃げはじめた。呆気にとられる一行のうち、何名かが八左衛門尉を追ったが、郡内の侍衆は武田の追っ手に向かって発砲し追撃を阻んだ。勝頼は目の前にておこなわれた裏切りにしばし呆然とした。鉄炮の脅威がなくなったとみるや、追っ手は更に八左衛門尉の逃走方向を走ったが、行く手に関所が設けられ、八左衛門尉の号令のもと、この関所からも鉄炮を撃ちかけられて郡内に入ることが出来ない。追撃結果の復命を得た土屋惣蔵は勝頼に対して
「小山田信茂の変心が明白となりました」
と進言した。
「謀られたか! いくさして力及ばず滅びるというのであれば諦めもつこうものだが、その機会すら得ず人々の裏切りのうちに滅ぶか!」
木曾の裏切りや下伊那諸城が次々に自落しているという報告、或いは穴山謀叛の報告を得ても怒号しなかった勝頼が遂に怒りを顕わにした。それは、岩殿城に入って人々を糾合し、小諸城から討って出た相模守信豊の軍とともに信忠勢を挟撃するという作戦が全くの画餅に帰することが明らかになったからであった。勝頼がこの期に及んで目論んだ興亡の一戦は泡と消えたわけである。
小山田信茂の謀叛が明らかとなり、駒飼の陣地は大変な騒ぎになった。付き随っていた曾根河内守は陣屋に火を放って弟掃部助とともに行方をくらませた。
小山田信茂の謀叛によって興亡の一戦の機を失った勝頼には、もはや滅亡以外の道は残されてはいなかった。勝頼は怒りのあまり一瞬我を喪ったが、肩で息を吐きながらひと言こう言った。
「天目山に入る」