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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 最終章 最後の日々
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新府遺棄(三)

 国中に駕籠かきや夫馬ぶうまの召集を布礼回った武田家であったが、人は集まらず、城下の屋敷からようやく夫馬一疋を見つけ出し、これに草鞍を敷いて林を乗せる有様だったという。

 新府城を落ちた人々の中には武者のみならず多くの女性子供が含まれており、代表的なところでは五郎信盛娘小督(こごう)、勝頼息女貞姫、小山田信茂息女香貴姫と、これを伴う松姫。それに勝頼の祖母である御大方(於福の生母麻績夫人)、信虎が在京時にもうけた娘上臈である高畠のおあひ等、女子供の名が落人として記録されている。林ひとりぶんの夫馬をようやく見つけ出したくらいだったので、これらの人々はみな徒歩での逃避行を強いられることとなった。

 右のとおり、松はいずれも四歳前後の姫を伴い、従者数名に護られながら兵禍を避け東を目指した。歩き慣れない悪路を行き、後ろから敵兵が追い掛けてくるという声を聞きながら、逃げる暗がりの道のどれほど恐ろしかったことだろう。

 近隣の耳目をひいて大々的に執行された新府移転からほんの二箇月で、一門はこの城に火を掛け去らねばならなかった。新府城の一角には、武田を裏切った人々が預ける人質があった。これらの人質の処遇について供廻りの者から伺いを立てられた勝頼は、冷酷に

「城の一角に閉じ込めて火を掛けよ」

 と、殊更青白いおもてを示しながら言い放った。これら人質は勝頼のこの一声によって城の一角に閉じ込められて火に掛けられた。彼等はほのおと煙にまかれ、辺り一面これら人質達の阿鼻叫喚に包まれ目も当てられぬ惨状であったという。平時には武田家から下にも置かぬ丁重な扱いを受けたこれら人質達も、有事に際してはその置かれた立場に則り、血によって裏切りの罪科を贖ったわけである。

 なおこの度の戦乱のきっかけとなった木曾からは、義昌老母と長女岩姫、嫡男千太郎の三名が人質として預けられていたが、これらは新府落城に先立つ三月一日、新府城下のにおいて簑踊りに処されている。これは罪人に着せた簑笠に着火して焚殺する刑である。着火に先立ち手を縛るので簑笠を振り払うことが出来ない。罪人は生きながらにして炎に灼かれ、なんとか逃れようと身もだえする様が踊っているように見えるためそのよう呼ばれた。この死刑執行があまりに凄惨だったためか、執行地である新府城下の曠野は、これ以降「躍原おどりはら」と呼ばれるようになる。

 林は払暁の空に黒煙を上げて燃え上がる新府城を振り返り見ては涙を流した。そのときに詠んだ二首


 うつゝには おもほへがたき 此所

    あだにさめぬる はるのよのゆめ


 はるかすみ たちいづれとも いくたびか。

    あとをかへして みかづきのそら


 が現代に伝わっている。

 逃避行の先頭を郡内に向けて進む勝頼もまた、時折新府城を振り返って思うところがあった。母於福より聞かされてきた祖父諏方頼重の最期についてであった。天文十一年(一五四二)年、武田晴信と高遠諏方頼継の両者から攻め立てられた諏方頼重は、本拠地上原城を焼き払って詰城桑原へと逃げ込んだ。それまで付き従ってきた人々はその道中、続々と敗軍の列を離れ、桑原城へと辿り着いたときには百名に満たない人々がようやく扈従こしょうするだけだったという。頼重は籠城もならず、桑原を開城して武田に降り、晴信から切腹を命じられている。勝頼が生まれるよりも前の話である。母がこの話を終えたときに、強い眼差しを見せながら決まり文句のように語った言葉が、勝頼の胸中を去来していた。

「いくさには必ず勝たなければなりません。負けて良いいくさなどありません」

 という言葉であった。

 母の口伝えに聞いた祖父頼重の最期は

「そのような最期だけは迎えてはならない」

 という強迫観念として、勝頼の意識の奥深くに植え付けられていた。自らが同じ轍を踏まぬためには何としても勝ち続けなければならない。信玄が逝去し、その後継として立って以降、それが勝頼にとっての至上命題であった。だが天は、勝頼が生きた同時代に織田信長という不世出の大政治家を既に輩出していた。勝頼は長篠において果敢にもこれに挑み、そして自らが最も恐れる敗北を味わうことになった。

 勝頼にとって初めてで、どうにも覆しようのない大敗であったが、懸命に手当に奔走した結果、負った疵の拡がりを防ぐことが出来た。越後錯乱(御館の乱)及び甲相手切以後の対北条戦で連戦連勝、息を吹き返した勝頼である。武田の財政が逼迫し知行宛行が滞る中、勝頼は、戦勝を重ねることによってそういった八方ふさがりの状況を打開しようと試みた。それこそが人々の心を束ねる最も効果的な方法と思われたからであった。そしてそれは事実であり、黄瀬川での対陣、膳城素肌攻めなどで勇名を馳せた勝頼の求心力は一気に高まった。

 逆説的ではあるが、高天神陥落という敗北によって人心が勝頼から離れたことが、勝利を重ねることの重要性を物語っていた。

 勝頼は、いま自分が新府城に火を掛け落ちていく様を、祖父諏方頼重の最期の様子に重ねることを止めた。何故ならば勝頼には依然、相模守信豊を別働隊とする勝沼での挟撃策に勝算があったからだった。

 一方そのころ、信長は依然として安土に在城していた。畿内近郷の諸侍が集合するのを待ちながら、彼は嫡男信忠が伊那路を驀進する様を肝を冷やしながら見ていたに違いない。信長は勝頼が信忠勢に挑み掛かること、その一戦で信忠が討ち取られることを極度に恐れていた。

 大島城が自落したのち、信忠が飯山城でしばし逗留したのは、林が信じた諏方明神の加護ではなく、信長が自制を求めたためであった。結果論的ではあるがこの判断は吉だった。

 もし大島城が自落した翌日或いは翌々日に信忠が高遠城へと進んでおれば、その時点で穴山梅雪は依然妻子を取り戻してはおらず謀叛に及んでいなかったので、上原城の勝頼が後詰の一戦に及ぶことが出来る状況が一時的にではあるが現出していたのだ。

 それでも彼我の兵力差から勝頼の勝ちは覚束なかっただろうが、なにもせず退却を繰り返すような事態にはならなかっただろう。万に一つということもあり得た。しかし信忠が父信長に従って進軍を停止したことで、勝頼が信忠勢に興亡の一戦を挑むという機会、そしてその機に類い稀な武勇を勝頼が発揮し、信忠を討ち取って、織田勢を一掃するという機会は永遠に失われた。穴山梅雪が謀叛して勝頼は諏方にいられなくなったのである。

 勝頼にとってはまことに不運だったし、織田勢にとっては、高遠攻城戦で信忠が危険な行為に及んだにもかかわらず、討たれずに済んだこともあいまって幸運であった。

 しかし安土に在って高遠攻城戦の顛末を聞いた信長は、御曹司の活躍を披露する使者に対して

「もし信忠が討死うちじにすれば遠国なので弔い合戦も簡単に出来ない。自重せよと再三申し付けたであろう」

 と怒気を顕わにしたという。その信長も、

「勝頼が新府城を捨てて遁走した」

 という報告を得て、本戦の勝利を確信した。

「もはや四郎の号令に従う者は一人としておるまい」

 勝頼が最後にして興亡の一戦をおこなおうと決意していたころ、信長はそのように独りごちてほくそ笑んだのであった。

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