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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 最終章 最後の日々
189/205

高遠城の戦い(四)

 武田を襲った事変は一月末日には不確定ながら北条氏政の許に伝わっていた。しかし北条家を主敵と定めていた勝頼は、武田北条間の人の出入りを厳しく制限していたために、武田領国を見舞った危機について、氏政は確たる情報を摑みかねていた。

 また駿豆国境や上州方面で苦戦を強いられていた氏政である。直前まで氏政自身に滅亡を覚悟させるほど北条家を追い詰め苦しめていた武田勝頼が、鳥居峠において叛逆者に追い落とされたであるとか、下伊那の諸城が一戦すら交えることなく続々敵方に靡いたといった情報の確度を疑うのも無理のない話であった。

(これは武田が流している虚説ではないか。勝頼が自分を誘き出し討ち取るために、敢えて虚偽の敗報を流しているのではないか)

 氏政はそのように疑って、安易に武田領国に手出ししようとしなかった。ただ二月も下旬となると、氏政の許にもようやく信頼に足る情報がもたらされた。遅まきながら攻めどきとみた氏政は駿豆国境の懸案だった徳倉城を攻め囲み、武田からの後詰を得られない笠原新六郎は降伏した。その勢いを駆った北条勢は沼津城に押し寄せて、城将春日信達、曾根河内守等は開城、退去している。また、駿河における武田方の拠点のひとつ、興国寺城には武田方の曾根内匠助昌世(まさただ)が籠もっていたが、北条勢は興国寺城を攻め囲まず、これを避けるように駿河への侵攻を続けた。

 興国寺城将曾根昌世は信玄在世中、

「武藤喜兵衛(真田昌幸)と曾根内匠は我が両眼の如くなり」

 と言わしめた若手将校の代表のような人物であった。

 三増峠の戦いでは、西上野先方衆を率いていた譜代衆淺利信種が戦死した折、目付として従軍していた曾根昌世が信種の采配を代わって握りしめ、西上野先方衆の指揮を執る機転を利かせて信玄を唸らせた人物である。その昌世も勝頼治世となってからは信長の許に密書を書き送り、その麾下に参じることを望むようになったという。信玄が「両眼の如し」と賞賛した才気は、信玄亡き後、信長に将来性があることを看破したのであった。武田領国を事変が見舞ったことで、前々から織田家への帰属を望んでいた曾根昌世は、いち早く信長への服属を表明し、北条方もほどなくしてそのことを知ったのであろう、北条勢は信長との軋轢を恐れて興国寺城攻撃を回避したものと考えられる。

 兎も角も、駿河は江尻城の穴山梅雪が家康に転じ、徳倉城、沼津城は北条方の手に落ちた。興国寺城は信長の許に奔り、三氏によって分割されることとなった。沼津城将春日信達は甲斐へと遁走して、新府城に入った。

 春日信達は勝頼に対し

「穴山梅雪謀叛のうえは沼津城を保つ能わず、恥を忍んで城を捨てました。ここなる新府にて、興亡の一戦に加えて下さい」

 と釈明し懇願したが、これには長坂釣閑斎などが勝頼に

「預けた城を捨てるなど、春日も下條伊豆や小笠原掃部と同じ穴のむじなです。城に入れるべきではありません」

 と讒言した。

 釣閑斎は十把一絡げに切って捨てたが、下條伊豆守は、嫡男信正と共に一度は滝澤要害に籠もって信忠の軍勢を食い止めようと試みた者であったし、大島城将日向玄徳斎虎頭(とらあき)も、結果的に城を捨てたとはいえ決して闘志を喪失して遁走したものではなかった。先に士気を阻喪した兵卒が城から逃散するなどの事象に見舞われ、やむなく城を捨てたのである。

 しかし各城将を見舞った個別の事情について詳細を知らない勝頼は、いま釣閑斎が名前を挙げたような連中が城を捨てたことで酷い目に遭わされた経緯もあったし、沼津のような要衝をいともあっさり敵に渡したこともあって、春日信達の新府入城を許さなかった。失意の春日信達は、落武者狩りの土民が蜂起する危険を冒しながら旧領海津城目指して信濃を落ち延びていった。

 月が改まって三月一日になった。木曾義昌の謀叛からひと月あまりで、武田の領国は甲斐本国に加えて高遠、諏方、北信、上州をようやく保持するのみとなっていた。それまで信長にしっかり手綱を引かれて、下伊那郡の飯山城に滞在していた信忠勢がいよいよ高遠城の目前、貝沼原へと進んだ。信忠勢はここで、高遠城に対する付城を築いたという。長期戦を睨んでいたのであろう。武田五郎信盛は、蟻が群がって塚を築いているような付城普請の様子を遠目に見ながら、あることを考えていた。

 城中を巡検すれば、目に入るのは具足に身を固めた男ばかりではない。こういった侍衆の離反を防ぐために、その家族までが城中に収容されていた。女性、老人、年端もいかぬ子供といった足弱の人々が、人質同然に城の中にひしめいていたのである。その中にあって、五郎信盛は

(自分だけが、小督こごうを城外に逃して良いものか)

 と悩まざるを得なかった。

 幼児特有の、瑞々《みずみず》しくきめの細かい肌。覚え立ての言葉を舌足らずの口で操って、父信盛への愛情を一生懸命に表現する愛しい娘小督。その娘が、この世に生を享けて幾許にもならぬというのに、焼け落ちるであろうこの城の中で、上臈か女中かは知らぬ、誰かに抱き寄せられ脇差で刺し貫かれる様。或いは熱い熱いと泣き叫びながら燃える城中で焼け死ぬ様を、信盛は想像したくはなかった。しかしその運命は着実に忍び寄っているのである。だが・・・・・・。

(苦しいのは自分だけではない)

 信盛は自分にそう言い聞かせた。

 籠城衆はみな、家族がそのような運命を辿ることを覚悟してまで、勝頼のために戦おうと決意しているのである。信盛だけが、娘可愛さのあまり、これを城外に逃がすことは許されないであろう。自ずとそのように思われた。

 しかし、それにしても・・・・・・。

 城主の地位濫用と思われても良い。あのように幼く、愛らしい存在がいくさのような野蛮なおこないの中で命を落として良いわけがなかった。なので信盛は、城主としての倫理に欠けるとの誹りを甘受してでも、小督を城外に逃がす決心をした。

 信忠は攻城に先立って降伏を勧告してくるはずであった。信盛は軍議の席で、自分の切腹と引き換えに開城して、城兵を退去させる案をまずは諮るつもりであった。しかしこの高遠城において、城主たる自分が切腹したからといって、これら血気に逸る高遠城兵がおとなしく城を明け渡すとは思われなかったし、そもそも城将達は決して降伏勧告を受け入れはしないだろう。信盛個人がいくさの回避を望んだとしても、この城が何かしらの混乱に巻き込まれることは疑いのないところであった。そのことは信盛の中で、小督を城外に逃がす口実に変化した。

 信盛は奥の間に足を運んだ。松姫に頼み事をするためであった。

 奥の間へ足を踏み入れると、小督が

「父上!」

 と満面の笑顔で信盛に駆け寄った。信盛は小督を抱き上げて頬ずりをした。

 小児特有の豊かな頬の感触。何物にも代えがたい、愛しい存在。

 自分が何もせずに手を拱いておれば、この愛しい存在は、およそ人の世で最も残酷と思われるいくさというおこないのなかで、永遠に失われてしまうことになるのだ。そう考えると、信盛の目に自然と涙が滲んだ。

 そこへ松姫がにじり寄って言った。

「間もなく、いくさが始まるのですね」

 信忠を待ちわびる松姫も、さすがに緊張の面持おももちである。信盛は、この松の面持ちを見るや自分の目論見を達するためにはこのときをおいて他にないと決心して、小督をその腕に抱きながら松に言った。

「松。わしからそなたへの一生の頼みだ。小督を連れてこの城を落ち延びよ。くどいと言われても譲ることは出来ぬ。そなたの命を救うためだなどと、きれい事を言うつもりももはやない。わしは小督が可愛い。小督のために、この子を連れて逃げてくれ」

 その途端、松姫の緊張の面持ちにかっと朱が差した。

「それは・・・・・・、その頼み方は卑怯です!」

「なんと誹られようと譲れぬものは譲れぬ。わしは自分の娘が可愛い。城兵の妻子は城中に留め置きながら、我が娘だけを、父子の情に負けて城外へ逃そうとする卑しい兄の心根を汲んでくれ」

 信盛は小督を抱き下ろすや、奥の間の畳に座して松に対し手を付いて頼み込んだ。

「このために信忠卿とまみえることが出来なくなれば、私は兄上を決して許しません」

 松は涙ながらに抗議しながらも言外に脱出を了承した。

 どのような形であれ既に死を覚悟していた信盛に対し、決して許さないという言葉がおよそ意味をなさないことなど、百も承知であったが、そのような烈しい言葉を口にせずにはいられない松であった。信盛は侍十数名を選抜し、一行の護衛として新府城へと向かわせた。信盛と引き別れる際、ぐずる小督に、松は貝殻や人形を与え、上手くあやしながら乗物へと乗せた。

 韮崎へと向かう一行を見送りながら、信盛は安堵感の中にいた。それは、どのような形であれ間もなく自分は死ぬのであり、その死に際して目にするであろう残酷な風景の中に、娘の死という耐え難い光景を見ることだけは決してないのだという不思議な安堵感であった。

 小督が傷つき苦しむ姿を目にしないで済む。 

 それだけで、信盛は、どのような運命が自分を見舞ったとしても、甘んじて受け容れることが出来る気がしたのであった。

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