鳥居峠の戦い(七)
勝頼が上原に在陣して半月ほどが経ったころである。甲軍一万五千は、地の底から突き上げて空気を震わせるような地響きを聞いた。生まれて初めて耳にする無気味な地響きに、幾多の芝(戦場)を踏んで修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の彼等軍役衆もさすがに周章狼狽しながら、
「なんか来るぞ!」
「地震だ、伏せろ!」
と口々に喚き、その場に伏せ或いは屋外に飛び出して、城内は大変な騒ぎになった。次いで彼等を襲ったのは強い縦揺れであった。
酉の正刻(午後七時ころ)であって辺りは既に暗かったが、屋外に飛び出した軍役衆は真っ赤に染まる北東の空を見た。彼等はその赤い空を指差しながら
「浅間山が、火を噴いた」
と茫然自失呟いたのであった。
このとき、享禄四年(一五三二)以来五十年ぶりに浅間山が噴火した。地殻変動の仕組みなど知らぬ当代の人々にとって、浅間山の噴火は大きな政治的変動の前触れとされた。迷信ではあったが、かかる天変地異を前に為政者といえどまったく無力で、
「そのようなものはいくさの勝敗や御家の命運とは関係がない」
と声高に叫んだとしても、一度動揺を来した諸衆の心を再度引き締めるのは容易ではない。
勝頼は、浅間山噴火という事態を目の当たりにして、これ以上動揺が広がる前に木曾を潰してしまう必要に迫られた。
そこへ一騎、肩で息を吐きながら騎馬武者が躍り込んできた。
「注進! 吉岡、松尾両城自落!」
下伊那方面からただ一騎落ちてきたと自称するこの騎馬武者は上原城本丸において土屋右衛門尉に面謁するや、信じがたいことを口にした。
土屋右衛門尉はまず、自分の耳を疑った。泥にまみれながら大息を吐く騎馬侍に対して
「もう一度言ってみろ」
と問うと、やはり彼は
「吉岡城主下條伊豆守及び信正父子は城を逐われ、松尾城主小笠原掃部は城ごと信忠に転じました。敵の軍勢は飯田に迫っております」
と、血を吐くような声で吼えるように言った。
勝頼が上原城に在陣したまま日数を過ごしていたのは、下伊那を守る下條父子と小笠原信嶺が、この切所を北上してきた敵方を、数ヵ月は食い止めるだろうという見立てがあったからである。その最前線に立つ下條や小笠原が迫り来る織田方と一戦も交えることなく城を明け渡したと聞き、土屋右衛門尉は目の前が真っ暗になる思いであった。
土屋右衛門尉は一瞬の虚脱状態の後、我に返ってこのことを勝頼に伝えた。
「吉岡と松尾が自落した? 下條父子はどうした。小笠原掃部はどこでなにをやっているのか」
勝頼は大声こそ上げなかったが、もたらされた情報について信じられないといった様子でそのように訊いた。
「下條父子は舎弟下條九兵衛尉よって城を放逐され、以後行方知れず」
「小笠原掃部に至っては城ごと信忠に転じ、軍勢を率いてその先導を買って出た由」
「信忠の軍勢は小笠原掃部を先陣に押し立てて飯田城に迫っております」
土屋右衛門尉は勝頼にそう言上した。
勝頼はここまで具体的に敵の動きが伝わっている以上、下伊那から逃げ込んできた騎馬侍の情報は真正にして信ずるに足るものなのだろう、と前置きしたあと、
「この上は拱手傍観している暇はない。一挙に鳥居峠を駆け上がり、木曾の兇徒をことごとく討ち果たすよりほかない」
と、遂に木曾撃滅を下知した。
勝頼は上原を出て塩尻峠を越えると、今福筑前守昌和を先手の大将に任じて鳥居峠を駆け上がらせた。しかしただでさえ狭隘な間道、その両脇を解けきらぬ雪が覆い、如何に木曾勢に優る多勢の甲軍本隊とはいえ、一列縦隊となって急な坂を駆け上がるしか攻め手がない。鳥居峠に切所を構えた木曾方は、押っ取り刀で応援に駆けつけた苗木遠山友忠友政父子も加って防戦にあたり、先頭切って駆け上がる武田の兵を弓鉄炮で狙撃し、或いは長柄で突いて、後続の兵共々崖下へと幾度となく追い落とした。それでも木曾を潰すには鳥居峠を破るより他に方法がない甲軍は、諏方頼豊や穐山紀伊守等の新手を続々と繰り出して峠の下から激しく挑み掛かる。
過酷な山岳戦に慣れた木曾の諸兵にも疲れが見え始めたころ、坂を駆け上がる武田の縦隊の両脇から、俄に鬨の声が響き渡った。それと同時に弓鉄炮はもちろん、石礫までが文字どおり雨あられと彼等の頭上に降り注いで、傷つき斃れる兵卒数多に及ぶ。先手の大将今福筑前守は前進の采配を振るい続けて叱咤するが、夕刻を迎えこのまま攻勢を続行することは不可能な情勢であった。甲軍は夜陰に紛れて味方の負傷兵や戦死者の遺体を収容しなければならなかった。救護や供養といった意味合いよりも、明日以降の攻勢に備えて足場を確保するためといったほうが正しい。甲軍にとって士気の上がらぬ乱戦のさなか、捕らえた木曾の足軽から聴取したところによると、木曾では人々がこぞって織田方に靡き、今や大百姓で武田に忠節を誓おうという者は一人としていないという。そして、峠に乱戦する甲軍の両脇から出現した木曾の兵は、こういった織田方に靡いた地元の人々が、木曾の兵を手引きして、峠を駆け上がる武田の兵に横矢を浴びせかけることが出来る絶好の位置に案内したものだと述べたのであった。
尋問に当たった相模守信豊は衝撃を受けた。谷に住まう人々が自ら案内者に立ったということは、木曾は義昌の一存ではなく軍民挙げて武田に叛いたということであった。今や筑摩の軍役衆の多数も、小笠原貞慶の調略に呼応して中塔城や夏道砦等の拠点に籠城していると信豊は聞いていた。如何に信濃分郡の人々とはいえ、武田に叛いたからとて撫で斬り、皆殺しにするというわけにはいかなかった。要するに叛乱の波を押し止める術がない。
(もはや、対処不能だ)
信豊は木曾の人々までが武田に叛いたと聞いて、口には出さなかったがそのように直感し絶望した。
そして信豊は好ましからざる尋問の結果を勝頼に注進すべく、その本陣を訪れた。信豊は木曾の捕虜から得た情報を勝頼に伝えた。
勝頼は
「そうか。義昌のみならず大百姓までが武田に叛いたのか・・・・・・」
と呟いてしばし沈黙した。
木曾が武田に服属した天文弘治のころといえば、武田は甲斐を出て信濃に歴戦し、領土を一挙に拡幅させている時期にちょうど当たっていた。出征を重ねれば重ねるだけ、末端の軍役衆にまで銭や物が懐に入った時期であった。武田氏はそうやって人々に
「武田に従えば豊かになれる」
と信じさせることが出来たのだ。
しかし拡大の方途を失って十年、いよいよ草の根の人々の我慢も限界に達したものと見える。武田家首脳部は、大百姓の離叛によって、今まさにそのことを思い知らされているのだ。
勝頼はかかる注進を得て力なく
「兵を諏方へ返す」
と口にした。
相模守信豊はその言葉に驚き、
「今、生き残った者達で死者傷者を回収しております。足場を定めて払暁から再び攻め上れば、地の利を得ているとはいえ木曾も力尽きましょう。そうなれば一度は織田方に靡いた大百姓どもも或るいは・・・・・・」
と、なおも攻撃を続行すべしと唱えたが、下伊那の防衛線が突破されつつあり、浅間山噴火に人々が動揺を来している今、木曾にかまけている暇は寸刻も与えられていなかった。
勝頼は鳥居峠を退き、迫る敵方を押し止めるべく諏方上原へと軍を返したのであった。




