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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 最終章 最後の日々
174/205

新府移転(五)

 その沿道の人々のなかに、一人の尼僧の姿があった。年の頃は初老に達し殊更豪奢な僧衣を着しているものでもなかったが、不思議と気品を備えた立ち姿である。法名を理慶尼と呼び、曾て俗名を松葉と名乗っていた。

 理慶尼のひとかたならぬ気品には血筋が関係している。父親が武田信虎実弟勝沼信友だったのである。本来であれば武田一門として新府移転の煌びやかな列に加わるべき松葉が、何故理慶尼と名乗り、しかも沿道諸人のなかに身を置いていたのであろうか。

 今を遡ること二十一年前の永禄三年(一五六〇)、松葉の兄勝沼信元が、長尾景虎(後の上杉謙信)の調略に乗って武田宗家に対し謀叛を企てたとの嫌疑を受け、信玄に誅殺されるという事件があった。その累が及ぶことを恐れ、松葉は雨宮織部正と離縁、出家して理慶尼を名乗ることとなった経緯があった。勝沼信元誅殺以後、勝沼武田家の活動は確認できなくなることから、信元の跡目は立てられず断絶したのであろう。いわば理慶尼とって信玄は兄信元の仇であり、武田宗家は勝沼武田家を断絶させた怨敵に他ならなかったわけである。到底新府移転の列に加わることが出来る立場にない。それだけに彼女の透徹した眼は、その美しさにのみ関心を奪われがちの新府移転の列を、ある異変が見舞ったことを見逃さなかった。

 沿道の見物人の中から、その煌びやかさにどよめく声に

「御一行お待ちあれ」

「何故累代の府第を打ち棄てられるか」

 などと呼び止める声が混入して、しかも引きも切らずに飛び交う。これらの声はおしなべて悲痛に満ち、この期に及んで新府移転を押し止めようという哀切を湛えた声に、理慶尼には聞こえた。しかし一行がこのような声に歩みを止めることなどあろうはずもない。思いあまったのであろうか、ひとりの侍が、沿道を護る警固役の肩に手を掛けた。

「なんとか思い止まって頂けんか。新たな屋敷もしつらえておらんというに」

 するとこの侍に力を得たのか、見物人の列から一人二人と出てきては

「しばしのご猶予を」

 とか

「韮崎に屋敷を構えるまでは、どうかお待ちあれ」

 と懇願する。警固役は固い表情のまま、そういった人々の手を振り払い、貴人の座乗する輿車よしゃを護ってなおも歩みを進めた。押し止めようと追いすがる人々も遂には諦め、その列の背を虚しく見送るより他なかった。理慶尼は美しく煌びやかな一行が立ち去った跡の府第を振り返った。府第をぐるりと取り囲む塀から、つい先日まで頭を覗かせていた高い松の木はそのことごとくが消え失せている。漆喰に塗られた塀も打ち崩され、曾ては覗き見ることも出来なかった内々の様子が文字どおり垣間見えた。しかし壮麗な建築物がそこにあることを期待しても無駄である。建物は引き倒され、植えられた木々は六十余年を一期として伐り倒され、浅ましい有様を呈している。初めて眼にする者は、これが栄華を誇った甲斐武田家の政庁だったなどと到底信じなかったことであろう。築地塀が崩れ落ちて狐狸が出入りしたという禁裏の衰微も斯くやと思われるていであった。理慶尼には、国主勝頼が移転を急ぎ、そのために準備の整わない国衆が必死になって移転を押し止めようとしたこと、そしてそのように移転に反対する者も、自分が移転してしまえばやがて韮崎に転じなければならなくなるであろうという勝頼の思惑が透けて見えるようであった。理慶尼は、破壊し尽くされた躑躅ヶ崎館の跡地に、勝頼の新府移転に賭ける強い決意を見た気がした。

 さて警固役に護られた輿車には、勝頼正室(りん)が座乗していた。金銀、宝玉で飾られた輿車は他の輿車を圧する美しさであり、他国に聞こえた林の美しさに似つかわしいものであった。林は先ほど警固役と侍との間で交わされていた遣り取りについて警固役に尋ねた。あれはなんだったのでしょうと。警固役はこたえた。

「韮崎への移転を思い止まるよう、頻りに申しておりました」

「何故押し止めようというのでしょう」

「思うに、未だ韮崎に屋敷を構えておらんのでしょう。あらかじめ通達しておったのに、悠長に構えているからあのような浅ましい姿を晒すことになるのです。御前様はなにごともお気になさることはございません。凡下の者共が、生来の怠惰のために今ごろになって慌てふためいているだけの話でございますゆえ」

 警固役はそのように冷たく言い放ったあとは、もうなにもしゃべらなかった。警固役の言葉に、林は喩えようのない不安を抱いた。この移転によって、具体的にどのような事態が発生するのか説明はできなかったが、決して万人に歓迎される性質のものではないということだけは確かだった。

「見えて参りましたぞ」

 警固役が指差した先の台地上には、明らかに人の手が加えられた土塁があった。土塁の上に御殿がひとつ。

「新府城でございます」

 警固役が続けた。林は目の前の土塁とぽつねんと建つ御殿が、自分が知っている城にほど遠いことを思って俄に警固役の言葉を信じることが出来なかった。列は徐々に城へと近付き、新たな政庁らしい威容を湛えた大手門が一行を迎えた。

 一行はここで、新府に入る者と、更に進んで高遠に入る者とで引き別れた。

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