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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第二章 甲相死闘
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高天神城陥落(四)

 勝頼が新府築城を決定したとき、遠州高天神城城主岡部丹波守元信は、年始の軍議で決したとおり家康に対して降伏を申し出た。城兵の助命と引き換えに、高天神城は当然のこと、遠州に武田が確保していた小山城、滝堺城までも明け渡すことを家康に打診したのである。

 家康は高天神城からの矢文を得て、これを信長に回送した。高天神城のみならず小山、滝堺の両城を無傷で入手出来ることが好条件に思われたからであった。

 信長は、しかしこの条件に食指を動かす家康に対して

「降伏を受け容れることなく包囲を継続し、蒸し落とすべきである。しかし実際に包囲に当たって苦労しているのは徳川勢であり、自分としてはどちらが良いか判断できない」

 と回答している。

 家康への気遣いを見せてはいるが、これなど社交辞令のたぐいであって、信長が本心では降伏拒絶、包囲継続を望んでいることは明らかであった。

 信長が文面で気遣いを示したように、実際包囲の継続は徳川勢にとっても苦労の連続であった。付城として築かれた城や砦に入ることが出来ればまだましで、そうでもなければそういった付城群を結ぶ柵や虎落を守備するために露天に配置されるのである。一日たりといえども露天に立つことが出来ない寒風の候であったから、日に三度の番替えを要した。包囲側の疲労は甚だしい。家康が、岡部丹波の示した降伏条件に心を動かされたのも無理のない話であった。

 一方で城方はというと、既に籠城三箇年をけみしており、勝頼による最後の兵糧搬入から一年以上が経過して、籠城開始時に二千名近くあった城兵は、今は約七百名を数えるまでに数を減じていた。折節交えられた小競り合いによる戦死者もあったが、過半は餓死であった。

 城主以下小者に至るまでが署名した後詰要請の手紙にもかかわらず甲斐からの後詰を得られる見込みはほぼなく、城の蔵から遂に最後の食糧が運び出されるに至り、岡部丹波は今やがらんどうになってしまった食糧倉庫をぐるりと見渡した。このようになれば玉砕覚悟で城を討って出ると端から心は定まっていたが、実際に空っぽになった蔵を目の前に置くと、様々な後悔が胸中に去来した。岡部丹波はそのような想念を振り払うために蔵の前から立ち去った。これ以上空っぽになった蔵を目にすることは、後悔ばかり先立って玉砕の信念が揺らぎかねないからであった。

 後詰もなく食糧が尽き、降伏が拒絶された以上、残された道は城兵ことごとく餓死するか、余力のあるうちに討って出る以外にない。大半は討ち取られるであろうが、何人かが生き残る可能性があるのは後者であった。そのことは頭では理解できていた。だからこそ籠城衆首脳部は城外戦に討って出ることを軍議において一決したのだ。今更その議決をげることなど出来はしないのである。

 日没後、岡部丹波は依然身体を動かすことが出来る城兵のことごとくを本丸に招集してこう訓示した。

「既に籠城三箇年、糧秣は日々細り二千を数えた城兵は今や七百名を数えるまでに数を減じた。わしは武田家に参じてこの高天神城に入城したときから既に生還を期してはいなかったが、一族妻子と離れて分国から越された貴公等軍役衆のなかにはそこまでの覚悟もなく在番していた者も多かろう。しかしこのまま手を拱いておれば城兵はことごとく餓死することは疑いがない。たとえ幾人かでも生き残ろうと思えば討って出る以外に道はない。本日亥の正刻(午後十時)を以て全軍城外に討って出る。三箇年の鬱憤を散じるのはこのときをおいて他にない。各員存分に暴れ回るが良い。ひとしきり暴れ回った後は各物頭の指示を待つ必要はない、領国を目指してめいめい落ち延びよ。以上である」

 城兵はこの訓示により最後の出撃と思い定め、それぞれ寄親の元に参集して大手が開くのを待った。

「開門!」

 先陣を命じられた飛騨衆江馬直盛の大音声だいおんじょうとともに大手が開かれ、押太鼓が打ち鳴らされた。開門と同時に城内から盛大に弓鉄炮が放たれた。城兵は塊になって、正面に布陣する大久保忠世の陣へと斬り込んだ。これに岡部丹波率いる本隊も続く。

 しかし包囲の徳川勢はこのような城方の決死的反撃を予想しており、包囲陣直前に濠を構えていた。城方は敵正面に打撃を加えるためにはこの濠を越えなければならなかったが、極度の栄養失調のために夜眼が利かず、体も思う様動かすことが出来ず、濠を越える適当な足場を見つけられないまま濠の中でまごついているうちに、頭上から矢弾を浴びせかけられて過半が討たれた。

 しかしだからといって今更城内に引っ込むわけにもいかず、城兵は同僚の屍を越えて濠を上りきると、その一部が敵正面に到達し、徳川勢と激しく干戈を交えはじめた。敵正面に到達した城兵のなかには、籠城戦の指揮を執った岡部丹波も含まれていた。岡部丹波は今は一兵卒となって瘦せ馬を駆り、一人でも多くの籠城衆を駿河方面へと逃すため徳川の包囲陣へと乗り入れた。

 先述のとおり包囲の徳川方はこの日あることを予測していたから、兵卒に対して

兜頸かぶとくびは殺さず生け捕れ」

 と命令していたが、死兵と化した籠城衆相手にこれを生け捕りにする余裕も失われ、大久保忠教は満身に殺気を帯びて駆け寄ってきた敵の騎馬侍に対して、麾下本多主水に命じ

「防戦せよ。討っても構わん」

 と、その敵が兜頸であると分かっていながら討ち取るよう命令した。

 本多主水は手練の業を駆使して瘦せ馬の脚を払い、どうっと落馬した老武者の背後に馬乗りになると、脇差を以てその頸を掻き斬ったのであった。

 翌朝の首実検において兜頸の検分がおこなわれた際、本多主水が討ち取った老武者こそ高天神城城主岡部丹波守元信であると確認された。

 敵襲を受け必死だったとはいえ、大久保忠教は

「あれが岡部丹波と知っておれば部下に任せることなどなかったものを」

 と悔やんだという。

 城兵の過半は岡部丹波と同様の運命をたどった。暴れ回るといってもろくな食糧も食べていなかった身にそれすらままならず、武田方はみな驚くほど呆気なく討ち取られた。徳川勢を恐れて山中に隠れ駿河へ落ち延びようという者も、夜眼が利かないために沢を滑落したり川に流される者が数多に及んだ。この戦いで徳川方の頸帳に載った人数は、六八八名に及んだ。生き残ったのは僅かに十一名だったと伝えられている。

 その生存者の中に、武田家譜代家臣にして高天神城軍監横田甚五郎尹松(ただとし)が含まれていた。

 彼は

「必ず生きて帰る」

 という勝頼への約束を守るために戦域からの離脱を試みたが枯れ枝に足を踏み抜き動けないでいるところ、徳川兵のふりをして、味方の負傷兵を回収しにきた徳川方に身柄を回収させ、隙を見て遁走したと伝えられている。

 しかし当時の高天神籠城衆は飢餓のためさながら幽鬼のような人相だっただろう。徳川兵がそのような人相を呈している敵を、味方だと見誤るとは思えない。また足を踏み抜いて動けなかったはずの横田甚五郎が、徳川兵に救出されたそのすぐ後に隙を見て遁走した、というのも眉唾ものである。恐らく横田甚五郎は包囲の抜け道をなんらかの形で知っていたのであろう。彼は生き残った十一名のうちの一人となった。横田は得物を捨て具足も脱ぎ捨てて山中を甲府目指して走った。そして府第に到達して、勝頼に高天神落城を復命した。

 勝頼は横田甚五郎からの復命を得ると、眉間に縦皺を寄せてしばし瞑目した。実際には勝頼はそのような表情を示しただけで、なにごとも口には出さなかったが、横田甚五郎も勝頼に近侍する近習も、その深い溜息が聞こえてくるような勝頼の苦渋に満ちた表情であった。

 しばしの沈黙の後、勝頼は目を開くと横田甚五郎が重囲を突破して落城を復命したことを賞し、褒美を下賜しようとしたが、横田甚五郎は

「祖父原美濃守虎胤も養祖父横田備中守高松(たかとし)も、手柄なくして褒美を賜った例はございません。父康景も同じです。承るというわけには参りません」

 とこれを固辞したという。

 一方、遂に高天神城を陥れた家康は早速その旨を信長に復命した。信長は即座に返使を遣った。返使は家康の高天神城攻めを労う手紙を携えていた。手紙の文末には信長花押が据えられていた。

 組織が肥大化して文書類には印判を用いなければ事務手続きが進まなくなっていたこのころの織田家において、信長が花押を据えた文書を発することは異例であった。

 信長は近侍していた太田信定(牛一)や菅屋長頼に対して

「四郎は余の武辺を恐れて高天神城の後巻うしろまきを怠った。武田の権威はこれによって大いに失墜したに相違ない。余が討伐の兵を起こせば、駿河の小城に至るまでが一斉に余に靡くであろう。信忠には武田からの和与の使者を待たせておったが、もう用済みだ。断って甲斐に追い返してしまえ」

 と、武田から送り込まれていた和睦の使者を追い返すように言った上で、武田討伐に向けて近年稀に見る自信を示した。

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