源三郎送還
「遠路はるばる、よくぞ越された」
佐竹義重は畏まって目の前に座する源三郎を労った。
義重は、甲佐間に横たわる北条の大領を迂回して、常陸に下向してきた源三郎一行を丁重に遇したが、その源三郎は義重に対して型どおりの礼を述べるのがやっとであった。それは傍から見れば、人質生活が長く、人付き合いの苦手な少年が、百戦錬磨の武将を前に萎縮しているように映ったかもしれない。しかし源三郎が義重に抱いた印象は、そう単純ななものでもなかった。
(恐ろしい人だ)
源三郎は、初めて面会した佐竹義重という人物の、武将としての威厳に畏怖したというより、その内奥に潜む闇を敏感に嗅ぎ取って恐れたのであった。源三郎はこれまで、義重のような闇を宿した人物に接したことはなかった。甲府に在府していた当時は、何度か勝頼に面会したこともある源三郎である。武田家当主という勝頼の立場を畏れ敬ったことはあったが、勝頼本人を恐ろしい人物だと思うことはなかった。
勝頼に武将としての威厳が足りないという話ではない。
少なくとも勝頼には、義重が宿しているような闇――術数を尽くし、人々を裏切ってまでも乱世を生き延びるという覚悟――は見受けられなかった。
畏まって凝り固まった様子の源三郎に対し、佐竹義重は彼を気遣うような優しげな微笑を浮かべて接したが、その眼が笑ってはいないことを源三郎は看破していた。
「随分凝り固まっておられるが、安心召されよ」
義重は笑っていない眼で源三郎の眼を見据えながらそのように言った。
(この奇貨をどう活かすべきか)
笑っていない、飽くまで冷徹な瞳の奥にある頭脳で、義重は自分をどのように処遇するか、今まさに算段を打っている。源三郎は義重の眼を見ながらそのように直感した。義重は続けた。
「貴公を、織田家にお返し申そう」
これには源三郎ではなく、源三郎の随臣が驚いた。
「これは唐突なお申出。一方的でござろう」
と抗弁してみたが、義重は声を荒げることもなく
「そもそも当方は甲江和与を成就させるため、源三郎殿の身柄を預かったもの。これは武田家家臣跡部勝忠殿と協議の上で決したことである。未だ敵対中の甲江両家。武田から直接源三郎殿を引き渡すことも容易ではございますまい。したがって当家が勝頼公に代わってその役を引き受けたつもりだったのだが、もし甲江和与交渉などどうでも良いとの勝頼公御諚であれば、このまま甲府へ御帰還召されるもお心次第でござる」
と取りつく島もなく言い放った。
源三郎が看破したとおり、義重は同盟相手である武田家を裏切ってでも、この乱世を生き抜くために源三郎を徹底的に利用するつもりであった。たとえ武田が源三郎の身柄を織田家に返したとしても、信長が甲江和与に応じないことなど義重にとっては織り込み済みなのであり、信長は征夷大将軍補任という己が野望を成就させるために武田家討伐を固く決心していることは間違いないことなのである。
その、討伐対象たる武田と結ぶことが佐竹にとって将来の禍根となることに気付かぬ義重ではなかったが、対北条戦に勝利しなければならないという眼前に差し迫った問題を解決するためには、有力な同盟者が必要不可欠であった。
現下、武田を除いて関東にそのような存在を見出すことが出来ない情勢であり、勝頼と結ぶという選択肢は義重にとってやむを得ないものであった。義重は対北条戦で武田と共同作戦を展開しつつ、甲江和与のためと称して源三郎の身柄を織田家に返し、信長に対しては、武田家滅亡後の自家存続を賭けて、その実子を取り返したという貸しを作るつもりなのだ。
源三郎の身柄を預かった義重は、早速武田家に宛てて源三郎が無事常陸に到着したこと及び当家から織田家に源三郎の身柄を返し、義重の仲介で甲江和与交渉を開始する準備がある旨の使者を立てた。佐竹からの使者を得て、勝頼は佐竹からの申出の是非について重臣達に諮った。しかし甲江和与交渉開始の反対論者は小山田信茂くらいなもので、北条との戦いに集中したい他の各将によって賛成の結論が速やかに導き出された。
勝頼は、
「織田家に帰った源三郎を、将来相模守信豊の婿にする」
という条件を附した上で義重の申出を了承する旨の返使を早速派遣した。
武田一門のうち勝頼との結びつきが強い信豊と縁戚関係を取り結ぶことで、甲江和与の実を挙げようという心根によるものであった。武田からの返使を得た義重は、源三郎を信豊の婿にするなど、信長が了承するわけがないということを知悉しており、そのような交渉にこだわっておればいつまで経っても源三郎を織田家に返すことが出来ないと考え、武田の附した条件などに目もくれず、源三郎に岐阜下向を命じた。安土ではなく岐阜下向を命じた所以は、まずは織田家の家督者たる信忠の許を伺候することが儀礼上求められ、それが常識だと判断されたからであった。信長との面談はその後と予想された。
源三郎一行は常陸から下野、上野を経て信濃に至った。滅多に甲府を出ることがなく、信濃との縁が薄い源三郎であったが、広がる風景は周囲に山々を湛える甲府のそれと似通ったものであった。信濃を抜けて織田領国へ入ったならば、自分は二度と再び甲斐の地を踏むことはないだろう。源三郎はそう思うと、どこか甲斐の山々に似た雰囲気のある信濃の景色を、しっかり目に焼き付けておこうと思ったのであった。
一行は岐阜に至ると、そのうちの一人が甲斐に向けて引き返した。源三郎の岐阜帰還を勝頼に復命するためであった。源三郎は信忠との面会に臨んだが、母親を異にし、顔も見たことがない年の離れた兄ともなると、源三郎にとっては他人同然であった。それは信忠にとっても同じことで、面会は庶子が織田家惣領に挨拶する、という儀式以上の意味を持たないものであった。岐阜に留め置かれている間、源三郎は、信長との面会に及べば、武田家との和睦を進言すると肚を固めていた。長く人質として甲府に留置されていた自分が、既に織田家と通交のあった佐竹の手を経由して信長の許に返された意味を、彼自身よく理解していたのである。信長と源三郎の面会が果たされたのは信忠との面会からしばらく後のことであった。