表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第二章 甲相死闘
163/205

膳城素肌攻め

 横田甚五郎は後詰を求める高天神籠城衆連署の手紙を無視してこのように陳べた。勝頼は予想外の甚五郎の発言を受けて慌てながら

「待て、待て甚五郎。それは汝一人の存念であって高天神城籠城衆の総意ではあるまい。余はなんとしても岡部丹波以下城兵を高天神城より救い出さねばならんと考えておる。汝とて、そのために命がけで城を脱してきたものであろうに」

 と言ったが、後詰を押しとどめる横田甚五郎に力を得たのか、典厩信豊や大龍寺麟岳和尚等一門の有力者も

「横田殿の申出ごもっとも」

 と高天神城救出に消極的な意見を異口同音続発した。

 甚五郎は

「もし御屋形様が武田の威勢衰えたりと近隣諸国より侮られることを恐れ、飽くまで後詰すると仰せならば、何時いついつどこそこに到達する予定であるとあらかじめ籠城衆にお達しを下さいませ。我等城兵はお達しのあった頃合を見計らって、御味方の本陣目指し一斉に城を討って出ましょう。そのように斬って出ても生き残るのは僅かな人数にとどまることになります。しかしこの手はずであれば、御屋形様は高天神城を後詰するため出張ってきたことには間違いございません。他国から侮られる謂われはなくなります。城兵は後詰を待ちかねて堪えきれず勝手に城を討って出たものですから、自滅ということになり御屋形様の武名に傷を付けることもございますまい。どうか御屋形様、武田の明日のために、兵を温存なされませ」

 横田甚五郎は途中から涙声に変わっていた。

 彼が人生において最も苦しい時間を共にした高天神城籠城衆は、今も飢餓に苦しみながら籠城戦を戦っているのである。同僚達は、横田甚五郎は徳川の包囲を突破して、後詰要請の手紙を甲府へと届けてくれただろうか、きっと届けてくれたに違いない。その返事や如何、と首を長くして待っているに違いないのである。そのような籠城衆の苦衷を知りながら、武田家譜代家臣として主家を守るために城を見殺しにするよう進言しなければならない苦しみに横田甚五郎は悶え、涙したのである。涙声になりながらも鬼気迫る様子で高天神城見殺しを進言する甚五郎のただならぬ様子に、軍議の場は静まりかえった。

 沈黙を破ったのは、当初から後詰そのものに反対していた長坂釣閑斎であった。

「もはや、これ以上の詮議は無用でございましょう」

 釣閑斎のひと言で我に返った勝頼は

「高天神城後詰については再度検討する。一同大義であった」

 と散会を告げた。

 勝頼は太刀持ちの近習を従えて奥へと下がっていった。散会を告げた勝頼の心中は穏やかではなかった。高天神城を見捨てなければならないというのがその原因の一つであったし、このような危機に瀕しながら建設的な方向に意見を集約しようとしない家臣団、そして彼等をまとめきれない自分に対する怒りがさらに一つであった。人々の姿が見えないところまで引っ込むと、勝頼は近習が持つ太刀を荒々しく手に取り抜いて、言葉にならぬ怒声とともにこれを袈裟懸けに振り下ろして中空を斬った。

「何としても勝ち続けなければならんというのに!」

 勝頼は久しく発したことのなかった怒号を上げたのであった。


 勝頼は横田甚五郎が言ったように、高天神城と連絡を取り合い、せめてその直近まで後詰の兵を派遣することをなおも軍議で諮ったが、遠州方面において軍事行動をとる行為それ自体が甲江和与に及ぼす影響を恐れる長坂釣閑斎、跡部尾張守勝資、相模守信豊、大龍寺麟岳等にまたぞろ反対されてこれすらも諦めざるを得なかった。横田甚五郎は勝頼の引き留めを断って、自らが見捨てるよう進言した高天神城へと帰って行った。

 甚五郎はその際、勝頼に

「城が落ちても必ず包囲を脱し、その最後を復命する」

 と誓ったという。

 横田甚五郎は夜陰に紛れて高天神城に帰城した。

 甚五郎は勝頼の後詰を待ちわびる城兵に

「御屋形様は後詰を約束された」

 と嘘を言って励ました。

 しかし城兵が待てど暮らせど、勝頼の後詰が押し寄せるということはなかった。それどころか武田の主力は上州において対北条戦を戦っているらしいという噂さえ伝わってくるほどであった。

 岡部丹波守は深い後悔のなかにいた。それは

(もしあのとき、横田甚五郎ではなく別の者を甲府に遣わしておれば・・・・・・)

 というものであった。

 岡部丹波は武田家譜代家臣横田甚五郎尹松が、後詰要請の手紙を甲府に届けることに成功しながら、そのじつ口頭で勝頼に後詰不要を説いたのではないかと疑っていた。横田甚五郎が譜代家臣として国境の一支城よりも国家の命運を重要視することは考えてみれば当然のことであった。横田甚五郎が甲府行きの使者を買って出た所以も、はなから高天神城を見捨てるよう勝頼に献言するつもりだったからなのだろう。

 甚五郎を城外に逃がすため、徳川の柵に押し寄せるよう下命した決死隊は、城方の目の前でその全てが討死うちじにし、誰一人として帰還できなかったのである。そのことを考え併せると岡部丹波の後悔は一層深かった。岡部丹波は、目の前の難事を解決すること以外、もう何も考えないことにした。あれやこれやと考えれば考えるほど、後悔の念は深まるだけだった。

 家康が「高天神六砦」と呼ばれる付城郡の兵を、高天神城の濠際まで前進させた天正八年(一五八〇)十月、勝頼は万余の軍を率いて甲府を発向した。しかし勝頼の向かった先は、その出現を渇望する遠州高天神城ではなく、真田安房守昌幸の活躍と佐竹義重との同盟が機能して優勢に戦いを進めていた上州であった。

 勝頼は厩橋城を攻め落としたのち、上州南東の一角に僅かに残された北条方の新田金山、館林などで乱妨狼藉に及び、次いで膳城に攻め寄せた。北条方の大胡民部左衛門が籠もる膳城は防備堅固で、正面攻撃を試みた武田方は一旦跳ね返されている。冬も近い時節であったが城に駆け寄り攻め寄せた直後で甲軍各々具足を脱いで体を冷ましていたところ、その様子を見た膳城籠城兵がこれを機会とばかりに城を討って出て甲軍に襲い掛かった。

 だがひとしきり暴れた直後で昂奮の冷めやらぬ武田勢はかえって反撃を加え、城門を開いて城内に逃げ込もうという籠城衆に付け入って城内に討ち入る構えを見せた。このような動きは末端の兵の独断であり、武田首脳部の下命によるものではなかったが、甲軍の一部が城内に続々と討ち入っている様子を見た相模守信豊は、

「もはや始まってしまったいくさをとめだてする手だてはござらん。幸い御味方優勢の模様。疾く、総掛かりのご采配を」

 と促すと、勝頼は一旦二の足を踏んで

「軍規に反して、始まってしまったいくさに追従して采配を振るうなど、斯くもいい加減ないくさは先代のころもしたことがない」

 と躊躇したが、付け入りの甲軍はことほか勢い強く、勝頼も方針を変えて総掛かりの采配を振るった。

 この結果、反撃に出た膳城籠城衆はかえって千名に及ぶ犠牲者を出し、城代大胡民部左衛門は討死うちじに、武田勢は具足も身に着けぬ素肌攻めを敢行し、堅城膳城を陥れたことで勝頼の武名は一層近隣に轟いたのであった。

 武田の諸将が戦勝に沸いている最中、勝頼はひとり物思いにふけっていた。

(何としても勝ち続けなければならんのだ。これで良かったのだ)

 勝頼は自分に、強いてそう言い聞かせたのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ