義信廃嫡(一)
義信が甲斐東光寺に幽閉されて以降、城代、郡司に月ごとに課せられていた躑躅ヶ崎館出仕に際して、周囲の自分を見る眼が微妙に変化しつつあることを、勝頼は看取していた。
このころ、依然として武田の嫡男は正式には太郎義信であることに変わりはなかった。信玄は対内的にも対外的にもその立場を採り続けていたが、義信の監禁が解かれない状況が長引いていたことで、家臣団からも
「義信公廃嫡も有り得るのではないか」
という憶測が生じつつあった。
義信が廃嫡されるということになれば、次は勝頼しかいない。そのことは自明の理であった。
既に幾たびか戦陣を踏み軍功ひとかたならず、順調にいけば晩秋のころには父親にもなる勝頼である。武将としても人間としても大きく成長しており、ただ一点、血筋のことを除いては、信玄の跡を襲うに不足な点はないと衆目も一致するところであった。
府第(躑躅ヶ崎館)に登城した勝頼に様々なことを教示したのは長坂釣閑斎であった。本国甲斐及び各分国の郷村及び人口、検地結果を記した検地帳の所在、家臣団に宛がわれている知行高と課している軍役、城の数など、国家の中枢に関わる情報を長坂釣閑斎は勝頼に逐一説明した。
それは、あたかも勝頼が次期当主の座に就くことを見越した行動に映って、不快をもよおす者も少なからずあった。そういった者の代表が工藤源左衛門尉昌秀であった。
登城の日、例によって勝頼にあれこれと教示しながら府第内を歩く長坂釣閑斎に対し、すれ違いざま昌秀が敢えて肩をぶつけたことがあった。
釣閑斎は軽く会釈してその場を行き過ぎようとしたが、昌秀はそれを許すことなく
「待たれい」
と呼び止めて
「そのように廊下に広がって歩かれてはすれ違うことも出来ぬ。人にぶつかっておきながら謝りもせず立ち去ろうとは許しがたい」
と咎め立てた。
「あ、いや。しかと謝りはしませなんだが、会釈は致し申した。それにて汲んでいただければと思い・・・・・・」
釣閑斎が歯切れ悪くこたえると、昌秀は
「何を汲めというのか」
となおも釣閑斎に詰め寄って威迫する。
勝頼は堪らず
「釣閑斎の会釈には謝罪の意味も籠もっておった。見ていたわしが言うのだから間違いない。もう良いではないか」
と昌秀を止めにかかった。
すると昌秀は今度は勝頼に対して
「良いことなど一つもござらん。もとはといえばお二人が横に並んでそれがしの行く手を塞ぐように歩いているのが悪いのです。しかし勿体なくも御屋形様庶子たる勝頼殿の仰せ。此度ばかりは容赦致し申そう」
と尊大にも言い放ち、ひとしきり両名に絡んだあとは、何処かへと立ち去ったのであった。
「己が武辺を笠に着て傲慢な申しよう。さほどの手柄も挙げたことのないくせに・・・・・・」
釣閑斎の呻吟を、勝頼は聞き逃さなかった。
勝頼は元服前の永禄四年(一五六一)、八幡原に向け出陣前の父に目通り願うべく広間の前で逡巡していた自分に、昌秀が背後から突然、殊更自分を軽んじるような言葉を掛けてきたことを思い出していた。
あのころの勝頼は初陣も踏まず前髪も下ろさぬ若造ではあった。軽んじられて言葉を返せるような立場になかったが、いまは違うのだ。いまや勝頼は高遠諏方家という一家の主人なのであり、戦場で挙げた功名も他国に聞こえるものであった。義信の監禁が解かれぬ状況が続くいま、勝頼が家督を相続する可能性は日を追って大きくなっているという時節であった。
その自分に対して何が気に入らないのか、
「勿体なくも御屋形様庶子」
などという皮肉を込めたようなものの言い方。
家中において工藤源左衛門尉は近年小荷駄ばかり任されてろくな軍功もなく、感状のひとつも賜ったことがないという口さがない噂を勝頼も耳にしたことがあった。感状を授けたことがないという父の存念が那辺にあるものか勝頼には分からなかったが、そのことが近年進境著しい勝頼に対するやっかみとなって、いまのような態度に表れたのではないかと勝頼には思われた。
「気にするな釣閑斎」
勝頼はそういって、釣閑斎に引き続き府第内を案内するよう促したのであった。