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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第二章 甲相死闘
159/205

佐竹義重の謀略(ニ)

 義久が驚くのも無理はなかった。この時代、如何に衰微したとて足利家こそ将軍家なのであり、足利家以外に将軍職に就く家柄はないと広く信じられていた。少なくとも当時の人々にとってそれが常識であった。これまでも、将軍の不在京という政治的状況はたびたび出現していたのであり、そのたびごとに足利家に連なる者が将軍位に就いてきたのである。天正元年(一五七三)、足利義昭は信長によって京都を追放されたことは周知の事実であった。しかしこのことが公儀の解体を示す事件だったとは、将軍の不在京に慣れっこだった当時の人々は誰も考えなかった。それは東義久にとっても同じであった。

 義重は続けた。

「信長公は何よりも実績を重んじる人柄と見受ける。もし征夷大将軍位を望まれるなら、それ相応の手柄を挙げてからと考えられるであろう。そのような信長公の視点から日本全図を眺めたとき、余には信長公が次なる標的にして最後の敵と思い定める怨敵が見えてきたのだ」

「それが武田家であると・・・・・・!」

「他にあるかな?」

 義重は驚くばかりの義久の顔を見てにやりと笑った。

 確かに、令外りょうげの官たる征夷大将軍位成立の所以ゆえんを考えれば、京畿から見て化外けがいの地ともいえる関東を討ち果たしてこそである。その意味では、依然信長に楯突く中国の毛利輝元も、越後の上杉景勝も関東を代表する大名としての資格を欠いている。

 信長は武田家討伐を以て関東平定の手柄とし、征夷大将軍に昇ろうというのであろうか。

「しかし兄上、そうであれば信長公は勝頼公討伐を固く決心しているということで、なおのこと甲江和与など画餅ではありませんか」

「そのとおりだ義久。したがって余は、信長公が武田を討ち果たすより先に武田を利用し尽くしてやろうと考えておる。武田と同盟して出来るだけ北条の領土を切り取り、大領を得て織田家に服属するのだ。甲江和与はそのための時間稼ぎに過ぎん。勝頼嫡子信勝が信長公御嫡孫に当たる人物とはいえ、信長公は武田を赦免いたすまい。源三郎の身柄を当家に求めた所以も、武田から信長公御子息の身柄を救い出したのは我等佐竹だという実績を残すためだ。新しい時代はもうすぐそこまで来ておる。我等は何としてもその時代まで生き延びなければならん。それまでは勝って勝って勝ち続けなければならんのだ。如何なる術策を労してでも、だ」

 そこまで聞くと、東義久は目の前に座る兄が、急に恐ろしい存在のように思われて身震いしたのであった。

 さてそのような佐竹義重の思惑を知らない跡部昌忠は甲府に帰還するや、同盟を約する義重の起請文を勝頼に提出して、甲佐同盟成立を復命すると共に、

「義重公の御諚」

 として、信長と通交がある義重が中人として立ち、武田と織田の和睦仲介を斡旋する意向がある旨を報告した。

 佐竹義重からの申出を受けた勝頼は、府第に諸将を招集して対信長外交に関する軍議を開催した。

「甲江和与交渉について如何」

 勝頼が問うと、開口一番これに反対したのが小山田左兵衛尉信茂であった。

「それがしは反対でござる。信長は横柄な人物だと聞いております。源三郎の身柄を佐竹に引き渡しても和与に応じることはございますまい。信長自身も武田家討伐を固く決意していると聞き及んでおります。我等とて御先代の御代より信長とは不倶戴天の間柄。結局信長とは、弓矢を以て決着を付けるより他にないと存ずる。和与などと生ぬるいことを申しておれば他国に出し抜かれるだけ」

 とまで言うと、いつもであればこのような意見に同調して和与に反対するであろう穴山信君が、今日は珍しく小山田信茂の意見に反対、和与に賛成という立場を示した。

 広間の諸将は

(これは、如何なる心境の変化か)

 と訝しんだが、よくよく考えれば東西から挟撃される立場にある駿河江尻城代穴山信君が甲江和与に賛成するのは当然のことといえた。

 いつもであれば勝頼やその意を受けた跡部大炊助の意見に反対していたずらに場を紛糾させるだけの穴山信君が和与交渉に賛成したことによって、軍議は驚くほどすんなりと和与に決したのであった。諸将は、無論勝頼も含めて、誰ひとり信君の隠された本心に気付く者はいなかった。

 数日後、勝頼は織田源三郎との面会に臨んだ。甲斐府中を出て、その身柄を常陸の佐竹義重の許に送ることを源三郎に告げるためであった。記憶も曖昧な幼いころに甲斐へと拉致された源三郎にとって、府中に与えられたこぢんまりとした人質屋敷こそ彼の育った故郷ふるさとであった。他の国衆から徴された人質同様、源三郎もまた日常生活において貧窮するようなことや、武田家中の者から殊更蔑まれるという扱いを受けたことがなかった。これは信玄が、国衆等から徴した人質については丁重に処遇することを心懸けていたからだった。徴した人質をぞんざいに扱うことによって国衆等から恨みを買うことを避けるための措置であった。無論、人質という性質上、出身母体である国衆が武田に叛いたような有事が発生すれば、府第に身柄を収監され、武田によって殺されるという運命にあったのだが、そういったことでも起こらない限り人質達の身柄の安全と豊かな生活は保障されているというわけである。源三郎にとって甲斐での人質生活は気楽なものだったのであり、勝頼から常陸行きを告げられた彼が、甲斐府中を離れがたいと感じたのも無理のない話なのであった。

「源三郎、久しぶりだな。息災であったか」

 勝頼がひれ伏す源三郎に声を掛けても、源三郎は甲高い声で

「はい」

 とひと言こたえたきり、言葉を継がない。

 普段、府第に出入りすることもない源三郎にとって、甲斐の御屋形様は遠い存在であった。

「長く不自由な人質生活を強いた。甲斐府中を離れ、常陸の佐竹義重公の許へと出向くがよい」

 勝頼はごく事務的に、そのように告げた。

 勝頼は用は済んだとばかりに

「大儀であった。下がってよい」

 と源三郎に申し渡したが、源三郎は思い詰めたように伏すばかりで退出する様子がない。

「如何致した。下がってよい」

 重ねて勝頼が告げると、源三郎は、胸の裡に秘めていた思いを吐露し始めた。

「御屋形様、源三郎は甲斐を離れたくはありません」

「・・・・・・・」

「幼少のころ、自分の身に何があったのかを知らぬ源三郎ではありません。物心つくより先に美濃岩村城よりここ甲斐府中へと連れ去られた我が身、常陸へ下るという噂が身辺に立ち上って以来、この甲斐国を離れがたいと思う心は日を重ねるごとに積もるばかりです。もし御屋形様が、この源三郎を役立たずの穀潰しだと思し召して常陸へ下向させると仰せなのであれば、旗本近習などとは申しません。先衆さきしゅうとして取り立ててくださいませ。鑓働きにて必ずやお役に立って見せます。ですから、常陸下向の件だけは、どうかご容赦を」

 と次第に涙声になりながら在府を望んだ。

 これには太刀持ちとして控える勝頼近習が

「控えよ源三郎。重臣御歴々の軍議によって決したことだ」

 と叱責を加えたが、勝頼はそれを制して

「その志やよし。しかしな源三郎。余は決してそなたを穀潰しだと思ってこのように決裁したものではない。もし武田の役に立ちたいと考えるなら、常陸下向の件、快く引き受けて欲しい」

 勝頼は自分と比較して二十以上も若く、未だ元服もしていない源三郎に対し、丁寧なものの言い方を変えなかった。

 だがそれは言葉の上だけのことで、実際には源三郎に常陸下向を断ることが出来ない重圧を与えるものであった。即日、源三郎は泣く泣く甲府をあとにした。佐竹義重の招請に応じ、常陸へ下向するためであった。

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