甲相激突(一)
「今が千載一遇の好機だ」
甲相手切を受けて穴山信君が秘かに思うところあったのと同じころ、小県郡砥石城代真田喜兵衛尉昌幸は勝頼が北条との手切を宣言したことを受けるやそのように陳べて俄然勇躍した。昌幸は砥石城に帰還すると早速叔父の矢澤頼綱を呼び寄せて
「真田が大を成す好機が到来しました」
と告げると、頼綱は
「突然どうした」
と昌幸の様子を訝しむこと頻りであった。頼綱がそのような昌幸の様子を不審に思うのも無理のない話である。昌幸が
「大を成す好機」
などと息巻いて見せても、このときの武田が置かれていた八方ふさがりの情勢が、俄にどうこうなるものとは到底思われなかったからであった。
西には大国織田家と、その威を借る徳川がある。東には手切に及んだばかりの北条。これも一朝にして撃滅できる安直な手合いでは決してない。上杉家督を継いだ景勝は同盟相手であって領土拡大の相手とはなり得ない情勢であった。
北条との同盟によってなんとか平穏を保っていた西上野方面もいよいよ戦火にさらされるかと思うと、頼綱はそのことを負担とは思っても、昌幸の言うように好機とはどうしても捉えることが出来なかった。
「上杉はあてにならず、東西から挟撃されようというのだぞ。好機もなにもあったものか」
如何に剛勇を誇るとはいえ、東西から敵が迫る情勢に緊張の面持ちを隠せない様子の頼綱に、昌幸はこたえた。
「そうとも限りません。それがし思うに東上野諸将のうちで氏政に心服しておる者は一人としてございません。東西からの挟撃と申しますが、東からの攻勢は、こと上野方面においては心配する必要はございますまい。こうなった上は、昨年上野に打ち込んだ楔が活きようというもの。これが喜ばずにはいられましょうか」
謙信生前、東上野は関東方面へ進出する橋頭堡として上杉の勢力が浸透していた。謙信は東上野を足掛かりとして、越山を繰り返したのである。
しかし風向きは昨年の越後錯乱を境に激変した。東上野諸将の大半は、地勢的に近距離に位置し、かつ大勢力を誇る北条家の支援をあてにして景虎方についたが、当の北条家が佐竹義重等東方之衆との対陣に足を取られ、これら東上野諸将の期待に添うことが出来なかった経緯があった。
河田重親や北條芳林等東上野諸将の間には、あてにしていた北条の支援を得られず、かといって景勝本拠地坂戸城を陥とすことも出来ず、西上野において安定した力を保っていた武田に靡こうという空気が漲っていた。その空気を見透かしたように、彼等に調略の手を伸ばしたのが真田昌幸であった。これにより北條芳林等は一時的に武田に服属するなど、昌幸の動きは一定の成果を得たが、この策動に、当時武田との同盟関係を保っていた氏政が反発した。
氏政はかかる動きを即刻中断するよう勝頼に抗議した。結果、勝頼は昌幸の策動を慰労しながらもその中止を求めている。
哀れなのは、一時的とはいえ昌幸の調略に乗って武田への服属を表明した東上野諸将である。梯子を外された形となった。彼等は越後錯乱に際して積極的軍事行動を起こさなかった北条氏政への服属を余儀なくされたのである。
これら東上野諸将の北条家に対する不信と不満を知らない昌幸ではない。東上野に渦巻くこれらの不信、不満を利用すれば、拡大の出口を失って久しい真田にとって、領土拡幅のまたとない好機となろう。誰憚ることなくおおっぴらに上州を切り取ることが出来るというものである。昌幸が甲相手切と聞いて勇躍したのはこのためだった。昌幸は東上野を巡るこのような情勢に言及した上で、頼綱に上野諸将の調略に取り掛かるよう命じたのであった。
昌幸の目標は沼田城攻略であった。そのために昌幸は、沼田城の西の備えとして築かれた小川城攻略に取り掛かった。矢澤頼綱は上野方面の伝手を頼り、小川城主小川可遊斎に調略の使者を遣った。使者は可遊斎に対して開口一番
「我が武田は、遂に北条と手切に及び申した」
と告げると、歴戦の可遊斎もさすがに驚いた様子で
「その話は初めて聞いた。まことか」
と確かめた。使者は
「まことでございます。我が主は既に常陸の佐竹義重殿と誼を通じ、侫士氏政を東西から挟撃する手はずを整えてございます。そのために武田は、どうしても東上野を併呑しなければなりません。このような使者が貴殿の許を訪れていること自体が甲相手切の動かぬ証拠。加えてこのようなものも持参してございます。まずはご覧じろ」
使者は懐からなにやら書面を取り出し可遊斎に示した。書面は、小川可遊斎の本領を安堵する旨を明記した昌幸の判物であった。その真贋を見極めようと目をまん丸にして判物に見入る可遊斎に、使者は畳みかけた。
「我が主勝頼はいみじくも氏政を侫士と呼んで糾弾いたしました。そのことは可遊斎殿もお心当たりがございましょう」
昌幸判物に視線を落としていた可遊斎が、ぎょろりと上目遣いに使者を睨んだ。それは使者の発言に対する不快というよりは、氏政に対する抜きがたい憤怒の情が鮮やかに甦ってそのような表情になったもののように見えた。
越後錯乱に際し、可遊斎もまた三郎景虎方について氏政の来援を心待ちにしていた者のうちの一人であった。しかし氏政は可遊斎等の期待を裏切り、最低限の兵を樺澤城に残置しただけで、自分だけそそくさと本国に帰還してしまったのである。可遊斎は、場合によっては己が弟すらも見捨てる冷酷な氏政に不信を抱きながら、かといって景勝に帰参する気にもなれず、心ならずも北条への服属を強いられている立場だったわけである。自らが置かれた現状への不満が、一瞬にして表情に顕れたものであった。
(氏政はまさに侫士だ。信を置くに足らん。それに較べれば頼綱殿は旧知の間柄、しかも本領安堵を約束してくれている)
と思うと、小川可遊斎は
「最早考えるまでもない・・・・・・か」
と独りごちて、俄に
「分かりました。頼綱殿を信じましょう。今日からこの小川可遊斎、武田家麾下として侫士氏政討伐に協力しましょう」
と応じたのであった。このような経緯を経て、小川城は武田方に転じた。




