渦巻く不満(五)
家康は源之丞に退出を命じた後、年始に陸路を来た北条からの使者のことを考えていた。北条といえば元亀三年(一五七二)暮れ、信玄に合力して徳川領内に押し寄せてきた武田の同盟国であり、徳川にとっては半敵ともいえる存在であった。
その北条が徳川に誼を通じてきたことは、家康にとって驚きであると共に、武田を駆逐する千載一遇の好機と思われた。氏政が家康に贈答の使者を送り込んできてから七カ月後、協議を重ねた両家は、遂に駿河を東西から挟撃する共同作戦案を成立させた。北条は武田との手切を宣言して沼津へと攻め寄せた。家康はほとんど同日、駿河の武田方である持船城に攻め寄せ大身の城将二名を討ち取った上で駿府へと討ち入った。駿府はもぬけの殻で、乱妨狼藉の限りを尽くした家康であったが、沼津において氏政と対陣しているものとばかり考えていた勝頼が、増水した富士川を率先して渡河し、取って返しつつあると聞いて、家康は慌てた。
(なんて奴だ)
家康は馬首を西に翻しながら、勝頼の統率力に脅威の目を瞠った。
武田軍の三倍もの軍勢を擁する氏政を目の前において駿府に取って返してきたということは、その北条軍を撃砕した上でのことか、氏政が勝頼の武威を恐れて追撃を加えなかったか、そのどちらかであった。思えば勝頼は、あの長篠戦役で万にも及ぶ犠牲者を出しながら、ほんの数ヵ月後には軍団の再編に成功して家康の前に立ちはだかったこともある難敵であった。そのころは遠目に見ても質的低下が甚だしかった新生武田軍も、連年出陣を繰り返していくうちにそれなりの軍団に成長しつつあることが、家康にも見て取ることが出来た。そのこともまた、家康を感嘆させた。
(若年ながら恐るべき大将だ)
家康は勝頼のことをそう評した。
兎も角も家康には取って返してきた勝頼と単独で戦う力はなかった。
東西に敵を抱えながら縦横無尽に駆け回り、家康を駿河から追い払った勝頼の武威は近隣に響き渡った。その武威に目を瞠ったのは信君も同じであった。既に心中秘かに自らの行く末を決していた信君は、勝頼が東西の両敵を追い払った様を間近に見ながら思った。あの白面、上品ぶった切れ長の目。武勇とは凡そ縁遠いようにしか見えない勝頼のどこに、そのような勇気が隠されているというのだろうか。勝頼が示した並々ならぬ武威によって、内心秘かに不満を抱く武田の家中衆も、しばらくはそのような不満をおおっぴらに顕すことが出来なくなるに違いなかった。信君は改めてそのように思い、そして最後に心の中で呟いたのであった。
(諏方の鬼子め)
と。




