渦巻く不満(ニ)
信綱は主に伊那方面に配されて、信州防衛拠点である飯田城代や大島城代を歴任した。他国との取次を担うでもなく、山県三郎兵衛尉昌景や穐山伯耆守虎繁といった信玄子飼いの武将が他国の切り取りを任されるのを傍目に、自身は武田領国の奥深くに引っ込んだのであった。元亀四年(一五七三)、信玄が逝去した。このことは信綱の身辺を少し騒がしくした。信玄が三年秘喪を遺言したために、信玄と骨相の似通った信綱が影武者として起用される機会が増えたのである。影武者として他国の使者と接する任務はしかし、信綱にとってさほど重荷に感じられるものではなかった。この任務を遂行したからといって、誰彼に知行を宛がわなければならないであるとか、感状を授与しなければならないであるとか、他国に書状を発しなければならない、といった面倒な仕事を伴うわけではなかったからである。ただ信玄のふりをして、その声色を真似て、信玄のことをよく知らない人物をして信玄存命を信じ込ませてさえおけばそれだけでよかった。他国の使者は、自らが対面する「自称信玄」が実は信玄ではないということをたとえ看破したとしても、外交儀礼上その場でそういったことを声高に指摘することは出来ないわけであって、信綱に与えられた信玄影武者を勤めるという任務は、その成否が家中の誰にも分からないという、実に美味しい任務であった。しかし信玄の死が内外に公にされてからは、信綱が信玄影武者として起用されることはなくなった。同じころ、信綱嫡子信澄が亡くなった。享年十七であった。信綱にとって嫡子の死は個人としては大きな哀しみであり、公人としては後継者を喪失して今しばらく現役にとどまることを強いられるということを意味していた。信綱が家中の表向きのことに口を出すということはいよいよなくなっていった。信綱は一門筆頭として現役にありながら、甥の典厩信豊や、自身のもう一人の子、大龍寺麟岳ほどの発言力すらも持たなかった。だが信綱は発言力を持たず、大島城代としてある今の立場すら過分だと考えていた。
(早く家督を譲って、静かに余生を過ごしたいものだ)
兄信玄の影武者としての任務も終え、そのように考えていた信綱が、典厩信豊と大龍寺麟岳、そして穴山玄蕃頭信君がことあるごとに意見を対立させ、火花を散らす今の武田のありようを収束させるなどということは、全く興味の外なのであった。
余談が過ぎたが、このように代々続いてきた家督相続を巡る内訌、繰り返してきた外征による親族の死、それに伴う厭世的人物の輩出などの要素が重なり、一門衆に限定していえば武田家は明らかに人材不足だった。現時点で四十に満たない穴山信君が、一門の実質的な最年長者だったということ自体がその間の事情を物語っていよう。信君の母は前述のとおり信虎の娘(信玄の姉)である。そして彼自身も、信玄の次女を妻としていた。そのことから、武田一門衆筆頭としての意識は一層強かった。無論信君とて、勝頼を越えて自分が武田の家督を継承するに相応しいなどと考えていたわけではない。当初の既定路線どおりに信玄嫡子義信が後継者として起っていたならば、それに従わない信君ではなかった。否それどころか、信玄の庶子たる勝頼が後継者として起っている今現在も、駿河江尻という難しい場所を与えられなんとか必死にやり繰りしているのである。繰り返していうが、信君がことあるごとに典厩信豊や大龍寺麟岳と意見を戦わせるのは、決して彼が国主勝頼の権限を越えようと企んでいたためではなかった。信君にとって、こういった話の通じやすい一門衆ばかりを重んじ、少数の意見で国政を運営している勝頼のやり方は腹に据えかねるものだった。ただそれだけの話である。そして、
「勝頼側近ども憎し」
の激情から発せられる信君の意見は、ときとして頽廃的で
「もっとこうすれば良い」
という主体的で建設的な意見を以て発せられる言葉ではなかった。彼はただ、勝頼を取り巻く典厩信豊や大龍寺麟岳等の一門衆、そして跡部大炊助、長坂釣閑斎などといった連中が気に入らないので、その口を遮るためにだけに反対意見を陳べたのである。そしてそのような、何も生みはしない頽廃的意見が軍議において殊更取り上げられるはずもなく、信君は次第に、ただの口喧しい親父のような立場に追いやられた。反比例するかのように、勝頼側近の意見ばかりが採用されていく状況となっていった。その弊害は長篠戦役において極致に達したと信君には思われた。なので信君は、傍輩たる歴戦の将が続々と敵弾に撃たれ斃れてゆく様を尻目に、引率する軍役衆を引き連れて、いの一番に戦場を離脱したのであった。逃げようという信君にはしかし、実質的な一門筆頭としての責任があった。すなわち、暗君に諫言しなければならない、という責任である。信君は家老佐野主税助に軍役衆の先導と帰国を命じ、自身は馬首を勝頼本営に向け、そして本陣にて床几に座る勝頼に対し、馬上から
「先代以来の歴戦の将を、全て死なせてしまったではないか!」
と大喝し難詰した。場所は二人きりの密室ではない。旗本衆のひしめく本陣になのに、である。信君の撤退と、その際に勝頼に向かって吐いた暴言は戦後、家中に伝わって紛議をもたらした。春日弾正忠虎綱などは
「信君に責任を取らせて腹を切らせよ」
と勝頼に建言したほどである。信君とて、その覚悟なくして諫言に及んだものではない。
「切腹の御沙汰あれば従容として死に就こう」
と、河内の屋敷を清掃して府中からの沙汰を待ったが、やってきたのは案に相違して
「駿河江尻城代を命ずる」
という沙汰であった。以来、徳川の攻勢が続く駿河方面において、一門重鎮としてその防備に就いているのが穴山信君の立場であった。




