黄瀬川対陣(四)
勝頼は江尻城検分の後、今度は周辺への付城構築によって難渋していた遠州高天神城に入城して兵糧弾薬を運び込んだ。勝頼は久しぶりに城将岡部丹波守元信と面会した。老将のその顔は以前にも増して頬が痩け、目が落ち窪んで見えた。具足にも解れが見受けられる。苦労が偲ばれる形であった。
城主岡部丹波にしてからがそのようであるから、兵卒共はより一層難渋していた。
「これで当面は凌ぐことが出来ます」
岡部丹波守はそのように言って微笑んだが、周囲に着々と布石を打つ家康を滅ぼしてしまわない限り、高天神城がやがて重囲に陥ることは自明の理であった。
軍役が重なり、諸人が苦しみに身を置いている最中、殊更豪奢な高楼を築いてご満悦の穴山信君と比べると、先主今川家を失って心ならずも武田に服属しながら、敵の圧迫が最も前線の城に籠もるこの老武者岡部丹波守の方が、はるかに信頼に値すると勝頼は思った。勝頼は駿府において家康を取り逃がしたことにより、この老武者と高天神城を救う根本の解決策に失敗したわけである。
しかしかかる苦境にあって防戦一方の勝頼でもない。
北条との手切に備えて通好の使者を送り込んだ佐竹義重が、このころ北関東においていよいよ動き出したのである。氏政は北関東手当のために沼津城攻略を諦め転進せざるを得なかった。甲佐同盟が機能しはじめ、北条方が振り回されはじめたわけだ。氏政は伊豆を離れるに際し、近郷の村々に対して来年の普請役を前借りする形で城普請に駆り出している。
十年前に、信玄が関東に侵攻して物資を根こそぎ奪い去っていった事件は北条の分国中に知られた惨禍であり、氏政は武田との戦いに臨んで殊更その時の危機感を煽って人々に課役したわけである。氏政はこのようにして伊豆方面の防備を固め、駿河湾沿岸部に泉頭城、長浜城などを立て続けに完成させている。海路から侵攻してくるであろう武田の水軍を恐れての措置であった。




