黄瀬川対陣(一)
「みな、甲斐の武田を相手にすると聞いて尻込みしておるか。しかし心配は無用である。なぜならば余は、既にこの日あることに備えて、家康殿を通じて織田信長公に誼を通じているからである。如何に勝頼が武勇を誇ろうとも、東で我等と戦い、西で信長公の兵を受ければ滅亡は疑いのないところである。したがって安心せよ」
と言うと、満座の諸将は突然の言葉にみな驚愕の表情を示し、小田原城大広間は俄然ざわめき立った。
彼等にとって、武田家との同盟を前提とした織田徳川との関係は半敵ともいえるものであった。当主氏政は、そういった半敵勢力と和解して既に手を結んでいるというのである。実は年初に駿河を横断した家康への使者は、氏政の意を受けた氏照が放ったものであった。
勝頼や穴山信君が疑ったとおり、北条はぬけぬけと武田領国である駿河を通過して、織田徳川と姦を通じたというわけである。
氏照は既に兄が上方(織田勢)との友好に舵を切ったことを知りながら、殊更に
「屋形様には勝算はおありか」
などと問うたもので、氏政はこの際武田との手切と新たな同盟関係の構築を家中衆に周知させようと企て、軍議に先立って弟氏照に満座の中そのように質問するようあらかじめ言い含めておいたものであった。北条独力では武田に対する勝利は期しがたいと内心不安だった諸将は、既に当主氏政が徳川や織田の援兵を期待できる外交関係を展開していると聞いた途端俄に活気づき、
「信玄亡き今、武田勢恐るるに足らず」
「十年前の鬱憤散じてくれようぞ」
「勝利は疑いがない。恩賞が楽しみだ」
などと口々勝手な放言に及ぶ有様であった。
このようにして、甲相間の抗争は上州、駿豆国境において激しく展開されていくこととなるのであった。
氏政は沼津城が思いのほかの巨郭であり勝頼も出張ってくるであろうから、これを抜くことは独力では不可能であると判断し、九月初旬、遠州浜松の家康に対し早速共同作戦の使者を海路派遣した。
このころ家康は嫡子信康を巡る騒動の真っ只中にあった。国内の動揺を収め諸衆の団結を促すためには駿河出兵は恰好の外征であり、家康は氏政からの打診にこれ幸いと飛びついた。九月十五日、家康は信康に切腹を命じた。これは既に駿河出兵を内に布礼て軍役衆がその準備のために多忙を極めている時機を見計らいおこなわれたものであった。
家康が駿河に出兵し二山に布陣したころ、勝頼は黄瀬川を挟んで三島から初音ヶ原に布陣する氏政と対峙すべく沼津に出陣していた。氏政率いる北条勢は国境に築かれた沼津を奪取若しくは破壊しようと企てて出張ってきたものであり、勝頼は腹背に敵を迎え撃つ極めて厳しい立場に置かれたのである。しかも対岸に布陣する北条勢は武田勢と比較して数の上では明らかに優勢であった。新築の沼津城に入った勝頼は早速諸将に方策を諮った。
「持船城より家康が二山に布陣したとの連絡があった。腹背に敵を受ける不利であるが、氏政を打ち払わねば取って返すことも出来ん。良策はあるか」
すると小山田左兵衛尉信茂が
「良策も何もござらん。屋形様仰せのとおり、眼前の敵を打ち払うことに全力を傾けるべきであろう。ながながと詮議する暇すら惜しい。疾く討って出るべし」
と唱えた。これは小山田左兵衛尉が殊更軍功を焦って発言した積極論ではない。腹背に敵を置いている以上、事態が長引けば情勢が悪化することは目に見えていた。
「敵勢は如何ほどか」
勝頼が問うと、完成したばかりの沼津城代に任じられた春日信達がこたえた。
「三万五、六千と見得ます。四万には及びますまい」
「多いな・・・・・・」
呻吟するように呟いたのは穴山玄蕃頭信君であった。信君が呟いたとおり、この戦いにおいて武田は北条勢と比較しはるかに劣勢であった。勝頼が率いる甲軍はその数約一万六千。しかも背後には徳川勢約一万が二山に陣取っていた。敵勢は東西に二分されているとはいえ合計で約四万五、六千である。甲軍の三倍に及ぼうという大軍であった。
勝頼の頭の中に長篠の敗戦がよぎった。あの時も、武田本隊の後背に位置する鳶ヶ巣山を敵方に奪われてしまったがために正面に敵を置いたまま撤退もままならず、はるかに多勢の敵方が籠もる野戦陣地に突撃することを余儀なくされたのである。
今回もそれに似ている。
策もなく黄瀬川を防壁に布陣する北条方への正面攻撃を繰り返せば、数に劣る武田の継戦能力は数と地の利に優る敵方に先んじて破断界を迎えるであろう。陣立てが崩れて背後から追撃を受ければ、ようやくにして再建した軍勢がまたぞろ玉砕の憂き目を見かねかねない。勝頼は言った。
「今、手を拱いて城に逼塞するは座して死を待つようなものだ。正面の北条を打ち払う必要があるが、長篠の轍を踏むつもりはない。この上は北条を黄瀬川よりこちらに引き摺り出し、乱戦に持ち込んで一挙に片を付けるより他にあるまい」
「引き摺り出す? 如何にして」
典厩信豊が問うた。




