湖畔の巨城(一)
数日の後、勝頼は駿河富士大宮の煙の件について、府第の常の間に吉田守警斎を招致して、満座の中でことの吉凶を占わせると、守警斎はそのことについて明言することなく
ちはやぶる 我が心より 成す業を
いづれの神か よそと見るべき
身はやしろ 神の心を もちながら
よそを問うこそ 愚かなりけれ
という二首を引用したうえで
「駿河富士大宮の大杉から煙が立ち上ったとの噂話ですが、過去に同様の記録があるわけでもなく、神慮のたまものとしか言いようがございません。到底人知の及ぶところではなく、そうであればこそ、あれやこれやと気に病む必要はないと存じます」
とこたえた。
「なるほどよく分かった。家中においては甲相手切と、此度の富士大宮の煙の話を絡めて凶兆などと取り沙汰する者がいると聞き及んで占わせたものであるが、まこと守警斎の言うとおりで、余はかかる噂話を気にしてなどいない。このたび甲相手切に及び、そのうえ更に織田徳川からの攻勢を受けんか、武田は遂に滅亡するであろう。しかし余はたとえそのような運命に至ったとしても、御旗楯無に誓って信長風情に屈することはない。余がこのように決意しているからこそ、武田家滅亡の凶兆として富士大宮の大杉から煙が立ち上ったのだろう」
勝頼は家中衆に対して敢然そのように言い放った。それは本当に自己の滅亡を是とした発言ではなかった。勝頼は三方に敵を抱えている危機を乗り越えるために、家中衆の決意を促す目的で、敢えてこのような発言をしたのであった。勝頼は常の間を立ち、奥へと退出するその心中、
(これから先、なんとしても勝ち続けなければならない)
と考えていた。
この年の末、勝頼は駿豆方面に出陣の最中、本国の留守居役に対して菊姫入輿と信勝の具足召し始めの準備を命令している。出陣中にそのような重要事について指示していることから、勝頼がこれらの儀を急いでいたことが分かる。勝頼は同時にこの時期、家中における官途、受領名を一斉に変更している。たとえば典厩信豊を相模守、玄蕃頭信君を陸奥守、喜兵衛尉昌幸を安房守、大炊助勝資を尾張守といった具合である。勝頼は新たに北条家を主敵と定め、来るべき信勝への家督相続に向けて家中の体制を刷新するつもりであった。
このように勝頼氏政ともに手切を決意した天正七年(一五七九)五月のことであった。勝頼の許に信長が居城を移したとの報せが入った。既に近江に放っていた透破からの報告を得てその威容の一端を知る勝頼であったが、このたびその居城が完成して信長がそれへ入ったということであった。
史書(太田牛一『安土日記』及びルイス・フロイス『日本史』)の伝える安土城の壮麗な様をまとめると次のようになる。
天主は七重であった。「安土日記」の叙述からはこれが七階建てを指すものか七層構造を指すものか、必ずしもはっきりしない。最上階から六重目までは執拗に室内の様子が詳述されているにもかかわらず、七重目については
「金の灯爐を吊られていた」
と簡記されているだけで、これが室内に吊られていたものか七重目の軒先に吊られていたものかがはっきりしないからである。天主台と天主の接合部分すなわち天主の一階部分には特筆すべき意匠がなくほぼ伽藍堂で、地下に当たるこの階層を照らすための灯爐がいくつも吊されている状況を記述したものと解釈すれば、安土城は七階又は地下一階地上六階構造ということになり、これを「七重」と表現し、層数は不明ということになる。一方で天主の一階部分が外観から見た天主の六重、七重に当たる部分だと解釈すれば、天主は六階又は地下一階地上五階構造、外観は七層構造ということになる。そのように解釈すれば、現存天守で最大の姫路城(五層)を越えることになる。