甲相手切(六)
勝頼が北条との手切を宣言して少し経ったころのことである。
「駿河富士大宮は大杉の木から、頻りに煙が立ち上る」
そのような噂話が甲斐府中に伝わった。もとよりそのような噂話を気にかける勝頼ではない。かかる噂話にいち早く反応を示したのは男達ではなく、府第奥深くに住まう女性達であった。
林は、その噂話について女中衆が
「そのような話は聞いたことがありません。凶兆では」
と口にしたことを聞き咎めて
「詰まらぬ噂話で滅多なことを言うものではありません」
とたしなめて気にしていないふうを装ったが、勝頼が甲相の手切を決意して伊勢天照大神宮や熊野三所大権現に氏政を糾弾する内容の願文を納めたことを勝頼自身から聞かされて知っており、勝頼の行く末を考えると内心は不安で仕方なかったのである。
その不安は当初
「勝頼から離縁を告げられるかもしれない」
というものであった。
姻戚関係を伴う同盟が破れた場合、伴侶たる女性が取る行動にはいくつか種類があった。実家に帰るかそのまま嫁ぎ先に残るか、決めかねた場合は出家という選択肢もあった。林は自ら好んで実家に帰るつもりはなかった。幼いころから父氏康より
「そなたもやがて他家に嫁ぐこととなろうが、いやしくも武家の女。御家の恥辱となるような行いに及ぶでないぞ」
と教えられてきたからであった。
そもそも甲斐武田家への入輿も、自分が好んで選んだ婚姻ではなかったが、そうであればこそ勝頼と添い遂げて、生涯を武田の女として生き抜かなければ、本当の意味で自分の人生を生きているとは言えないように林には思われた。もし甲相手切を受けて小田原に帰れば、自分の意志も関係なくその先でまたぞろ兄氏政が決めた相手と添うことになるのだ。それが嫌なら出家する以外に道はない。この制約ばかりの人生の中で、少しでも自分の人生を生きたのだと言い切るために、そして何より自分に対してだけは人間らしい優しさを見せる勝頼を支えるために、林は武田家に残ることを密かに決意していた。その林にとって勝頼から離縁を告げられるということは、人生における自分の決断を強制的に排除させられることと同義であった。なので林はそのことを恐れた。勝頼は北条との外交関係で生じた重大な変化について林に説明した後、小田原への帰還を望むか、甲斐に残ることを望むかを訊ねた。その際の勝頼の言葉尻に
「どちらを選んでも良い」
という言葉があったことを、林は寂しいことだと思った。
「私は、御屋形様のお心を知りとうざいます」
林は自分が小田原に帰るつもりなのか、このまま甲斐に残るつもりなのかを言わずにそのようにこたえた。
だが林にとってこの言葉自体が明確なこたえであった。そのことは勝頼にも伝わった。林が小田原に帰るつもりであれば、勝頼の心を知りたいなどという言葉が出て来るはずがなかったからである。
勝頼は言った。
「神ならぬ身に知る由もないが、余はそなたとの今生の縁を、前世から続くなにかしらの因縁に基づくものと考えておる。そうでなければ、生まれ育った国も違うそなたとともにあって、斯くも心が落ち着くということについて説明が出来ないように思われるのだ。このところ忙しい。これからはもっと忙しくなるだろう。せめて心を許すことのできる伴侶と添い遂げたい。それが余の心だ」
林は勝頼の言葉を聞くとさめざめと涙を流しながら
「嬉しゅうございます。実は私も密かに御屋形様とのご縁を前世からのものではと考えておりました」
と言ったのであった。
その晩、勝頼は林と同衾した。大人の階段を昇り始めたばかりの林の体は、勝頼にとって美しく壊れやすいビードロの器のようであった。少しでも乱暴に扱えば欠けてしまいそうな繊細な体を、勝頼は丁寧に抱いた。戦陣において軍配を握り、ときには手綱を手に率先して一軍を率いることのある勝頼の逞しい前腕に抱かれると、林はなんともいえない安堵感に包まれた。いつもであれば多少なりとも苦痛を伴う房事であったが、この日、林は初めてその快楽の果てを知った。
ことが済んだ後、林は睦言を言った。
「林は嬉しゅうございます。御屋形様とならきっと添い遂げることが出来ます。富士大宮の大杉から立ち上るという煙も、きっと凶兆などではなく・・・・・・」
ここまで言って林ははっと口を閉じた。
「富士大宮の大杉の煙?」
勝頼はそのことを聞き逃してはいなかった。
もとよりそのような噂話を重大事とも考えていなかった林であったが、重大事と考えていなかっただけに、余計なことで勝頼に心労をかけたくなかったのであるが、少しの油断によってついそのことが口を衝いて出たのである。林は仕方なく駿河富士大宮の大杉から煙が立ち上るという怪奇現象が女中衆の間で噂されていること、そのことが凶兆ではないかと取り沙汰されていることを勝頼に包み隠さず伝えた。勝頼は林に、侍衆でその噂を知っている者がいるかどうかを訊ねた。林は、噂がのぼりはじめてから数日になるので、侍衆のうちでも知っている者がいるかもしれないとこたえた。その遣り取りをしておるときの勝頼の表情を、林は燭台の灯火が消えた暗い部屋の中ではあったがちらりと見た。それは既に、国主武田勝頼の顔になっていた。林はつまらないことを言ってしまった自分を責めた。つまらないことを言ってしまったがために、またぞろ勝頼は公人に戻ってしまったのだ。そう考えると、林はゆっくりと眠ることが出来なかった。