直訴(六)
後の巻 第一章はこのエピソードで完結します
「訴えの要旨は・・・・・・」
勝頼は、小池郷士の訴えの要旨については既に知悉していた。していたが、敢えてそのように尋ねた。
草間三右衛門尉は国主の質問に接し、逸る心を殺してこたえた。
「我等小池衆は代々内田山は熊沢を境として山に入り会い、草木を残らず刈ってきたものです。昨年七月、その内田山への入会を点札によって突然禁じられました。内田衆が申すには、地頭桃井将監様のお達しであるとのことでした。もとより我等とて境目を越えて木々を取ろうというものではございません。これまでどおり熊沢を境に入会を認めていただきたく、まかり越した次第にございます」
「して、奉行衆は如何に決裁したか」
奉行衆が決裁を回避し続けていることも勝頼は知っていたが、重ねてそのように問うた。
草間三右衛門尉はその問いに対して、奉行衆批判にならぬよう慎重に言葉を選びながら
「両者の言い分に証拠となる文書がなく、決裁に難渋しておられるご様子でした」
とこたえた。
勝頼は控える供廻を召し出して以下のとおり命じた。
「甘利同心田邊佐渡が現地検分をおこなっているはずである。これへと召し出すように」
一行は一旦勝頼の前から退去した。田邊佐渡が出頭するのを待つためであった。
半刻ほどを経て、田邊佐渡が志摩の湯に到着した。田邊佐渡は勝頼からの急な呼出に接して、取るものも取りあえず志摩の湯に駆けつけたものであった。勝頼は田邊佐渡に下問した。
「現地検分の結果や如何」
「小池郷士の主張に理があると考えます」
「それでは、そなたは小池衆の訴えを認めるべきであると考えるか」
勝頼から重ねて諮問された田邊佐渡は、検分結果を伝えたときの明瞭さとは打って変わって
「それは、その、それがしではなんとも・・・・・・」
と途端に口籠もったので、勝頼は
「余は忌憚のない意見を求めておるのだ。そなたの判断を聞きはするが、郷村の人々が直訴に訴え出ている以上判断するのは余だ。包み隠さず存念を陳べよ」
と促すと、田邊佐渡は
「小池衆の訴えを認めるべきであると考えます」
とこたえた。
「よろしい。余も同様に考える。入会を禁ずる点札は撤去し、明日から山に入るがよい」
勝頼はそのように小池衆の勝訴を言い渡した。
すると、これまで落ち着いた口調だった三右衛門尉は喜びに頬が緩むのを必死で堪えながら
「あ、ありがとうございます」
と、どもりながらいった。
しかし勝頼は
「待て。まだ公事は終わってはおらん。これより村へ帰る道中、御岳金櫻へ行き、宝鈴を鳴らして祭神の神慮をうかがうこと。汝等の主張に嘘がないことを祭神である少名彦命に誓うことが出来て、初めて公事は終わるのだ」
と念を押したのであった。
三右衛門尉一行は一刻も早く朗報を伝えようと村への道を急いだが、立ち寄らねばならぬところがあった。加賀美山法善寺であった。一行は法善寺の門を敲き、大坊に公事勝利を報告した。
大坊は好々爺のように相好を崩しながら
「そうであろう、そうであろう」
と喜んだ。
三右衛門尉はそんな大坊に対して
「とはいえ、ひとつ困ったことがあります」
と切り出し、御屋形様より御岳金櫻の宝鈴を鳴らすように言われているのだ、と大坊に言った。
大坊は
「汝等、嘘は吐いておらんのだろう。遠慮なく鳴らせば良いではないか」
と言うと、三右衛門尉は
「そのことなのですが、我等信濃国住人でございます。やはり我等が崇敬する小野神社の宝鈴を鳴らしたいと思いまして」
「良いではないか。して、その存念は武田の奉行衆に伝えたのか」
「それが、緊張のあまり・・・・・・」
「全く、しようのないやつらじゃ!」
大坊は呆れ果てながらも、苦労に苦労を重ねてようやく勝訴を勝ち取った小池衆の人々のために甲府へ使者を遣り、小野神社の宝鈴を鳴らすことについて武田の了承を得たのであった。
三右衛門尉一行は作事方の人々が小野神社の境内で社屋の修造作業をおこなっている最中、誇らしげにその宝鈴を鳴らした。未だに残る冬の冷気の中、鎮守の森に、その鈴の音は響いた。その音はまるで、今回の公事勝利を祝福しているかのように美しかった。峠において振り返り見た諏方の湖の輝きもまた同様に感じられたのであった。
村へと帰った一行は人々に公事勝利を告げた。三人はあっという間に喜びに小躍りする村人達に囲まれた。三人を伏し拝む者もいた。
三右衛門尉はそのような人だかりを押し分けて屋敷に入った。父に公事勝利を報せるためであった。三右衛門尉が官兵衛の許に赴くと、官兵衛は目を閉じていた。呼吸は浅い。父は最期の時を迎えようとしていた。三右衛門尉はそんな父の耳元に口を近づけて
「父上、公事に勝利しました。点札は撤去し、明日から山に入って良いと御屋形様より直々にお言葉賜りました」
と伝えると、官兵衛はやっと聞き取れる声で途切れ途切れに言った。
「このことは、きっと、後生に、伝えよ」
それだけ言うと、官兵衛は卒然として逝った。享年四十五であった。
しばらくして、府第において政務を執る勝頼の許に一通の家督相続願届がもたらされた。願届の中には草間官兵衛の名と、その死因が記載されていた。
天正三年五月鉄炮疵を負い、天正七年三月死去
同願届には、相続者として草間三右衛門尉の名も記載されていた。直訴からさほど時間を経ていなかったので、勝頼はその名を見て
(あのときの直訴の者か)
と、すぐに思い当たった。
あの者の父は、長篠において疵を負い、それが原因で死んだのか。そのように考えると、直訴に及んだ彼等に対し、勝利を告げたことは間違いではなかったのだと勝頼は思った。長篠において負傷し、死んでいった草間官兵衛にとってはせめてもの慰めとなろう。
勝頼は桃井将監に対しては上杉景勝より和睦の謝礼として贈られてきた金を下賜して補償としていた。補償の当てがあったからこそ小池衆の訴えを認めたのであり、もしそのような手段がなかったら、勝頼は小池衆の訴えを斥けていたかもしれなかった。勝頼は桃井将監に補償が出来たことで
(やはり、三和交渉自体は間違いではなかったのだ)
と、強いて自分に言い聞かせた。その勝頼の許には景虎の敗死の報が既に伝わっていた。
(この度の公事のように、鮮やかに交渉をまとめることが出来れば良かったのだが・・・・・・)
勝頼はそうも思った。その勝頼は、兄三郎の悲報に接した林が、良人に悟られまいと独り秘かに涙を堪えていることを知らなかった。




