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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第一章 越後大乱
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雪と運命(三)

 光徹と道満丸が殺害されたという報せは即日御館にもたらされた。起死回生の和睦交渉は破談となり、景虎は先の三和交渉で中立を宣言していた武田の領国を通過し北条領内に逃げ込むことを決意した。そのためには春日山城の東を切り抜けて、依然景虎方として奮闘していた鮫ヶ尾城に抜けなければならない。景虎はもはや二百名程度に減じた味方と共に、夜陰に紛れて御館を出発した。しかしその動きは、すぐに景勝の察知するところとなった。景勝は追っ手を差し向け、景虎一行を後尾から襲った。景虎旗本衆は景勝方の追っ手と斬り結びながら

「この場は踏み止まりますゆえ、早うお逃げなされ」

 と景虎に向かって絶叫した。雪の中を逃げる景虎の耳に、旗本衆の断末魔が聞こえた。

 景虎は這々の体で鮫ヶ尾城に逃げ込むことに成功する。その道中も追いすがられ、景虎正室にして景勝実妹のきよが死亡している。逃走を諦め自害したものか、暗いなか味方とはぐれ雪中を彷徨い凍死したものかは不明である。

 景虎が味方だと信じていた鮫ヶ尾城将堀江宗親であったが、何を隠そう既に景勝に通じていたものであった。しかし堀江宗親は、窮鳥懐に飛び込むの喩えもそのままに、落武者然として逃げ込んできた景虎の姿を見て俄に哀れをもよおし、殺害をためらった。

 堀江の家臣達は、城主が景虎殺害をためらっている様を見て気が気ではなかった。既に大勢は決したのである。景虎が信濃を通過して北条領国に逃げ込むことは既定路線と考えられたし、景虎を匿った挙げ句北条領国に抜けられてしまえばそれこそ景勝から吊し上げの仕打ちを受けかねない。家臣達は堀江宗親を説得して翻意させ、鮫ヶ尾城まで追ってきた景勝に密使を遣って城に手引きする段取りを打ち合わせた。

 三月二十二日、事前の打ち合わせどおり鮫ヶ尾城兵は景勝方を城内に引き入れた。城の外のみならず内にも敵方が溢れかえり、景虎身辺はさながら地獄絵図であった。景虎が籠もる屋敷の周囲には昨日まで味方だとばかり考えていた鮫ヶ尾城兵が銃口をこちらに向けてずらりと隊列を組んでおり、弾丸は引っ切りなしに撃ち込まれた。屋敷の外壁を成す木板は鉛弾の打撃を受けて弾け散り、外の光が射し込んでくるほどであった。景虎旗本衆は主を守るために身を挺して楯となり、身体に幾筋もの弾丸を浴びてその場に倒れ込んだ。

 なんとか脱出を模索する景虎一行はこのように追い詰められながらも二日間を持ち堪えたが、もはや彼等が生き残る術は失われていた。景虎は残りも僅かとなった旗本衆が奮闘して時間を稼いでいる間に腹を切って果てた。享年二十六であった。文字どおり血で血を洗う抗争は、勃発から十ヶ月、謙信の死から一年後に主要な戦闘を終え、ようやくにして収束の目処がついたのであった。


  *  *  *


 御館の乱に接して勝頼が取った行動については、今日に至るまで

「武田家滅亡につながる外交上の重大な過誤であった」

 と評されることが多い。しかし見てきたように、乱の実態は景勝対景虎の家督相続争いであるのと同時に、景勝対北条の戦いでもあった。勝頼は飽くまで脇役でしかなかったはずである。

 勝頼は信玄遺言を出来るだけ遵守しようと心懸けていた。その信玄が遺言の中で氏政の裏切りを予言したことは、勝頼の中で氏政に対する疑心暗鬼を密かに育てたことであろう。勝頼が危惧したとおり、乱に接し主役の一人として躍り出るべき立場にあった氏政は、景虎の救援に最後まで積極的ではなく陰に隠れがちであった。御館の乱が佳境にあるころ氏政の行軍は殊更遅延していたし、降雪の恐れがあったとはいえ、景勝討伐の好機にあって最低限の兵力だけを残置して自分はそそくさと本国に引き揚げている。鮫ヶ尾城に景虎が追い詰められたときも、上越国境に兵を出すなどして景勝に牽制を加えようという素振そぶりすら見せず動くことがなかった。自らが弟を冷たくも見放したのに勝頼が三和交渉を打ち切ったからといって、そのことを理由に甲相手切に及んだとは、辻褄が合わずどうしても考えられないのである。その意味では勝頼の行動が決定的に誤っていたとはいえまい。たとえ勝頼が景虎を救援して景勝を滅ぼしていたとしても、氏政はやはり何かしらの因縁をつけて甲相手切に及んだに違いないと思われるからである。越後は北条の分国と化し、武田家の滅亡は史実より早まったかもしれない。

 このように、どっちつかずの三和交渉という選択は勝頼にとってやむを得ないものだったのであり、寧ろ問題は、方針を三和交渉に急転換した意思決定が、武田家中から広く意見を募ってなされたものではなかった点にあった。

 もう少し後のことになるが、武田家滅亡に接して御宿監物は、小山田信茂に対して


  すな金を一朱もとらぬ我らさえ

  うす恥をかく数に入るかな


 と詠んで嘆いたという。

 景虎に合力せず北条との関係悪化を招いたことが武田家滅亡につながったという認識のもとに詠まれた狂歌である。三和交渉に方針転換した勝頼の意図が家中に浸透していなかったのであろう。意思決定に関わらなかった者達にとって、景勝が勝頼との和睦条件に示した黄金贈呈が、急な方針転換につながったという筋書きが最も理解しやすいものだったに違いない。解いておくべき誤解であったが、右のような不満が家中に渦巻いていたことを勝頼は知らなかったのだろう。それはそれで、重大な過誤である。

 ともかくもこの年、越後に降り積もった雪は景勝にとっては福音となり、景虎にとっては災厄となった。越後に住まう人々の足許に、雪は平等に降り積もった。しかしこの二人にもたらされた結果ははっきりと明暗が分かれるものであった。天候が誰彼に味方し、或いは誰彼に敵対したものではなかった。人それぞれが持つ、運の為せる業であろう。

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