境目争い(ニ)
「そんな・・・・・・」
三右衛門尉は絶句した。
このころ武田が領土拡大の出口を失って軍役衆の貧窮と疲労が甚だしかったという話は前に陳べた。信玄が連年の如く信濃に新たな領土を獲得して武田が拡大期にあったころは、利潤が隅々にまで行き渡り、個々の軍役衆をして
「身辺が裕福になり、一気に身形が良くなった」
と実感できるほどだったという。
この時代、合戦は富を得る最も合理的で手っ取り早い手段であった。甲斐の人々は信玄に率いられ、せっせと信濃に討って出ては刈田狼藉を働き或いは農家に蔵匿された武具、食糧を奪い、時には人を拐かしその縁者に売りつけるなどして物資や金銭を獲得してきたのである。信濃があらかた併呑されれば甲斐と信濃の人々は関東や駿河に討って出て、同じように他国から物資を奪って身を肥やした。草間官兵衛甚太夫父子、そして百瀬志摩の如き甲軍の末端を構成する軍役諸衆はみな、そのようにして一族を養ってきたのである。領土拡大の出口を失ったということは、そうやって身を肥やしてきた人々が富を得る方法をも同時に失ったことを意味していた。
桃井将監は気紛れに入会地への立入を禁じたわけではなかった。拡大の方途を失って武田氏全体が貧窮していたのだ。桃井将監はそのような情勢にあって現有財産の保護を図ったというだけの話であった。郷村の人々にもそのしわ寄せが来たことは小池郷の例を見るまでもない。日本列島を俯瞰する地図を見たことがない草間父子や百瀬志摩は、東西を大勢力に挟まれた武田が領土拡大の出口を失っていることを知らなかった。よしんばそのようなことを知ったとしても
「それならば炭や薪は我慢する」
とはならないであろう。これらは日常生活にはどうしても必要なものであったし、冬の備えを考えると夏の間から木々を伐採し蓄えておかなければならないものであった。伐り倒し持ち帰ればそのまま燃料として使えるような安易な代物ではないのである。
その晩、三右衛門尉は父官兵衛と角を突き合わせて談合した。官兵衛は
「出来れば公事によらず村同士での話し合いで結着出来ればと考えておったが、見通しは悪い」
と前置きしてから
「永禄のはじめのころ、小池と内田に白川を加えた三郷で牛伏川の水争いがあった。幾度もそなたに言って聞かせた話だ。その折は公事に及び御家中(武田家)から御検使賜って深志の島田様を加えて決裁いただいた。今回もそのようにしていただくべきであろう」
と、公事(裁判)によって解決すべきであるという見解を示した。官兵衛が口にした事件は三右衛門尉が四つのころの出来事である。幼いころから父と共に牛伏の川近くを通りがかるたびに聞かされた話であり、その話を締め括るときに決まって官兵衛が口にしたのが
「公事に及べばたとえ郷村同士の争いであっても武田のお奉行は決裁して下さる」
という言葉であった。
しかし三右衛門尉はその事件と今回の事件は性質が異なると考えていた。公事の相手方が他ならぬ武田の一門衆だったからである。そもそも一門相手の公事を武田の奉行が受け付けるかどうかすら危うい。なので三右衛門尉はそのことを父に問うた。すると官兵衛は続けてこたえた。
「なるほどそなたの危惧も分からんではない。馬場美濃守様(馬場信春)が御存命であれば随分大身の将でもあったので武田のお奉行も無下には扱わなんだであろうが、当代(馬場昌房)に至ってからはそれも危ういように思える」
と、まるで他人事のようである。
「しかし弓矢に拠って山を取り返すというわけには参りますまい」
三右衛門尉は父から有効な案を聞き出そうと、物騒なことを口にした。しかし官兵衛は笑みを浮かべながら
「滅多なことを口にするものではない。安心せよ。小池の地頭が美濃守様であろうと当代であろうと武田のお奉行は必ずこの訴えを取り上げてくださる。お奉行が取り上げてくださらなんだら御屋形様に訴え出ればよい。それだけのことだ」
と言ってのけた。
三右衛門尉は父の言葉を聞いて驚いた。国主自らが郷村同士の境目争いなどに首を突っ込むとは到底思われなかったし、なによりも越訴に及んで成敗の憂き目をみることを恐れたのだ。なのでそのことを心配して
「罰を下されるということはありませんか」
と問うと、官兵衛は
「ない。もしあればわしが村を代表して腹を切ってやる。それがわしの役目だからだ。そして、お奉行が決裁を避けた公事を決裁するのが御屋形様の役目なのだ。それよりまずはお奉行が決裁するかどうかであろう。安心して訴え出るがよい」
とこたえたのであった。
「分かりました。明日、村の連中をここに召し出して対応を協議いたしますが、そこで良案が出なければ公事に訴え出ることをみなに諮ってみましょう」
三右衛門尉は、官兵衛が言うように公事に訴えさえすれば、事がとんとん拍子に運ぶのだということについて懐疑的ではあったが、父と相談した結果、最終的に解決策が見出せなければ公事に訴え出ることもやむを得ないと考えるようになっていた。




