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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第一章 越後大乱
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御館の乱(八)

 景勝から起請文が提出された以上和睦は成立するものなのであって、景勝が約束した領土割譲が果たされるべきだと勝頼は考えていた。もとより割譲された地域に配することを目的として市川信房や大熊長秀を妻有庄方面へと派遣したのである。しかしどの地域をどういった方式で割譲するか、という具体的な交渉は確かに現時点交わされたわけではない。それどころか景勝からの起請文提出はあったが、勝頼は依然これをしたためてはいなかった。お互いの起請文が取り交わされたとはいえず、勝頼と景勝の和睦は正式には成立していない状態なのである。これは景勝の抗議に理がある。勝頼はそのように考え直し、市川信房に対して

「事が収まれば妻有は必ず宛がうので、無理強いはよせ」

 と下命したので市川信房は渋々要求を取り下げた。しかし景勝はなおも市川信房の動向が不安だったのか、同月二十三日に秋葉山城に援兵を送り込んでいる。

 永年武田上杉の間で領有が争われてきた信越国境に配されただけあって、秋葉山城将小森沢政秀はなかなかの人物だったようである。今回の越後錯乱に接し、上州所在の上杉諸将は武田が越後に向けて出陣したと知るや腰が砕けて西上野の武田方に雪崩を打って帰参している。

 それと比べて小森沢政秀はあらかじめ景勝から

「信越国境の武田は味方だ」

 と言い含められていたとはいえ、市川信房から領土と城の明け渡しを求められ大いに不安を抱いたはずである。

 だが彼は上州の諸将と異なり安易に武田に靡くようなことがなかった。景勝に事実関係を問い合わせていることから恐慌を来さず冷静に対処したと評するべきであろう。

 この後、景勝と勝頼の和睦は正式に成立し、景勝は約束どおり領土の割譲に応じている。妻有庄もその対象になった。市川信房が求めたのであろう。景勝は承諾して市川信房に対して妻有庄と秋葉山城を明け渡すよう通達し、小森沢政秀はこれに応じた。

 小森沢はしかし、居城を明け渡してもなおねることなく依然交えられていた三郎景虎方との戦いを望み、景勝に激賞された上で新たに犬伏城将に任じられて各所を転戦したと伝えられている。


 さて大出雲に到着した勝頼はそのころ、本営を数騎の馬廻衆とともに駆け出して景勝居城である春日山城を巡検していた。

(まさか自分がこの目に春日山城を見ることになろうとは)

 もとよりこれを攻め囲む目的があって巡検したものではない。この地を望んで果たせなかった父信玄が、いま勝頼が春日山城直近まで迫っていることを知ったら果たしてどう言うだろうかと考えたのである。

「よくぞここまで来た」

 と喜んでくれるかもしれないし、

「何故攻め落とさぬか」

 と叱咤するかもしれない。

 間近に見る春日山城はつい昨年謙信が陥れた能登七尾城と並んで天下の堅城と讃えられた巨郭である。荒川左岸の河岸段丘を利用して築城され、本丸は南北に長い尾根上に築かれていた。二の丸三の丸は本丸を据えた尾根と、その南から東に伸びる尾根との間の斜面を利用して形成されていた。この主郭だけでも十分広大で難攻不落を想わせるものであったが、加えてそれぞれの尾根上にも多数の砦や重臣詰屋敷が構築されており尾根伝いの攻撃に備えられている。一朝にして討ち滅ぼすことが出来る城には到底見えないが、守る兵がいてこその城でもある。

 いま、景勝は三郎景虎との戦いのために多数の軍役衆を諸方に派遣している最中であった。直近に構える御館おたての景虎方に備えて籠城できる最低限度の兵力は詰めているであろうが、城にはその規模に見合った兵数が必要なのである。狭小な城に多勢を籠めれば自壊は必至であるし、その逆すなわち広大な城に寡兵を籠めることもまた敵に曲輪を奪取される愚を自ら犯すことになる。

 そのことを考えると勝頼の脳裡に一瞬

(このまま春日山城を攻め落とし越後を掠め取ってしまえば、どうなるだろうか)

 という考えがよぎった。

 それは数ある選択肢の一つに過ぎなかったが、このように間近に迫って春日山城を見上げたとき、その選択肢が初めて現実のものとして勝頼の視野に入ったものであった。

 しかし既に景勝との和睦成立は目前に迫り、これに三郎景虎を交えた三和を取り結ぶという基本的な方針を内に対して明示していた勝頼である。この期に及んで前言を翻すことは許されないし、今、春日山城を掠め取ることは三和を取り結ぶどころか景勝、景虎、そして北条を全て敵に回す暴挙と呼ぶに相応しい行為であった。したがって勝頼は春日山城劫掠の考えを即座に振り払い、それ以上考えを巡らせることはなかった。

「本営に帰る」

 勝頼は馬廻衆にそう下知して、春日山城を背に本営へと返したのであった。

 その晩のことである。

 勝頼は大出雲に構えた本営で休んでいた。豪農の居宅を接収して応急の居処としていたものである。勝頼は眠っていた。その勝頼の耳に声が聞こえてきた。それは声だけであった。

「このようなところで何をしているのか」

 低く、しわがれた声であった。勝頼は

「誰か」

 と問うた。

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