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武田勝頼激闘録  作者: pip-erekiban
後の巻 第一章 越後大乱
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御館の乱(ニ)

 戦国大名が執らなければならない政務は数あるが、その中でも最も困難を伴ったのが後継者の育成と停滞なき権力の移譲であった。例えば信玄は嫡子義信への権力移譲を揺るぎないものとするために、歴代武田家では初めてその名に足利将軍家の通字である「義」の字を賜った。真偽は不明ながら准三管領なる職まで賜ったと伝えられている。信玄の奏請によるものであろう。しかし義信はその父を超越しようと企てて謀叛を企図し、露顕して誅殺された。信玄は慌てて勝頼を後嗣としたが、勝頼の家督相続直後の躓きは縷々陳べてきたとおりである。

 信長も子の信忠への権力移譲を図るために、朝廷から「次第の昇官」を勧められても

「官位は信忠に下さるように」

 と固辞したり返上を繰り返した。何事も起こらなければ信忠の権力は揺るぎないものになっていたであろうが、好事魔多しの喩えどおりで、本能寺の変によって信忠は父親もろとも討ち滅ぼされた。その後、強勢を誇った織田家はほんの数年で見る影もないほどに縮小してしまう。

 両者とも一見して順調だった後継者の育成が、思わぬ事件で頓挫した例であった。

 天下に王手をかけた天才謙信も、二者と同様の弊に落ちた。上杉家は停滞なき権力移譲と呼ぶにはほど遠い状況にあったと評するより他にない。

 謙信葬儀は、皮肉にも出陣を予定していた三月十五日に執行された。遺骸には生前の武威を示すように甲冑が着せられた。景勝と景虎が並び歩いて謙信遺骸が納められた棺を護ったという。

 戦乱のために荒れ放題だった越後を統一し、殖産興業に力を注いで、信玄の侵略を北信で食い止めた謙信の死は国内の上下を不安に陥れ、大いに嘆かせた。

 機先を制したのは景勝であった。同月二十四日、群臣を引き連れて春日山城の実城(本丸)に入ったのだ。景勝は実城に入るや早速義父謙信が生前蓄えた莫大な量の黄金を接収した。このとき手にした黄金が、後に景勝の生命線となる。

 しかし少なくともこのころ、景勝は景虎と表立ってことを構えてはいない。

 雲行きが怪しくなるのは、越後と国境を接する会津の葦名盛氏が挙兵するという噂が立ってからである。隣国の代替わりに乗じて勢力拡大を目論むのは戦国大名の習性、常套手段であり、越後は緊張に包まれた。国境の三条城主神余(かなまり)親綱は葦名の攻勢に備えて地下人ぢげにん等から人質を徴収した。彼等が他国の侵略者に寝返ることを防ぐための措置を採ったものであった。しかし神余親綱が敷いた臨戦態勢に過剰反応を示したのは他ならぬ新主景勝であった。

「地下人からゆえなく人質を取るとは解せん。謀叛を企てているのか」

 と神余親綱を難詰したのである。

 国境にあって国防のそなえを厳重にしていた神余親綱は心外だっただろう。或いは景勝自身、家督継承の経緯にやましいところがあることを自覚しており、疑心暗鬼に陥ったものだろうか。

 もとより謀叛の心根などない神余が

ゆえならござる。葦名が兵を差し向けてくるとの噂が流れており申す。これに備えてのことでござる」

 と弁疏しても景勝は聞き入れなかったという。

 話し合いはこじれて前関東管領上杉光徹(憲政)までが両者の調停に乗り出したが、葦名勢は噂どおり三条城に押し寄せてきた。事前のそなえと三条城兵の奮戦によって葦名勢は撃退されたが、神余親綱の危惧が的中し、その措置の間違いではなかったことが証明されて景勝の面目は丸つぶれとなった。まことに時宜が悪い。

 口には出さなかったが神余は

「それ見たことか」

 と思ったに違いないし、景勝の将器に疑問を抱いたことだろう。

 しかし景勝は己が瑕疵を認めるどころか、臣下に頭を下げるなど国主としての沽券に関わると短慮した結果であろうか、かえって

「地下人から人質を取ることはなかろう」

 と小過をあげつらってなおも神余を責める有様であった。

 自制して神余の措置を賞賛してさえおれば後の流れも変わったものになっただろうが、これには周辺も大いに呆れた。神余はもちろん、謙信以来の群臣もこの一連の混乱にはうんざりしたことだろう。景勝があまりに頑ななため、光徹も調停から手を引いてしまった。

 如何に万余の軍勢を采配一つで動かすことが出来る大名とはいえ、群臣の支持を欠いてしまってはその権力の保持は覚束ない。景勝は初っ端から人心掌握に失敗したわけである。堪忍袋の緒が切れた神余親綱は傍輩にして栃尾城主本庄秀綱と結んで景勝方の与板城を攻撃したので、景勝は彼等を謀叛人と認定した。いわゆる「三条手切」と呼ばれる事件である。

 与板城将にして景勝派の直江信綱は奮戦してこれを撃退したが、その間も春日山城近郊の大場において景勝方と反景勝方が激突、景勝は更に春日山城内で反景勝派の北條高定助五郎父子を誅殺するなどの事件が連発して戦火は広がりつつあった。

 家督相続からひと月あまりで早くも自らの地歩に危険を感じた景勝は、北條父子殺害に引き続いて景虎誅殺を目論んだ。謀叛人が景虎を御輿に据えることを恐れたためであった。

「もとより景虎に遺恨はないが、こうなってしまった以上は死んでもらうより他ない」

 景勝はその目に狂気を宿しながら秘かに景虎暗殺を命じた。

 夜半、刺客は景虎居処が据えられている春日山城三の丸へと踏み込んだ。しかし景虎の屋敷は本人はもとより妻子を含めてもぬけの殻であった。景虎は身の危険を感じて春日山城を脱出していた。景勝が危惧したとおり、彼のやり方に反対する上杉光徹が手の者を放って景虎の脱出を手引きしたものであった。五月十三日、景虎は関東管領の政庁である御館おたてに入城した。

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