手取川の戦い(一)
軍神との決戦を前にいがみ合う柴田勝家と羽柴秀吉。
軍神の動きは急であった。長続連の要請に応じて織田勢が後詰に寄せてきたことは戦地において発生した新事態であったが、謙信は出師に先立ち既にこの日あることを予見していた。なので謙信は少しも慌てず、七尾城の仕置を手早く済ませると息つく間もなく軍を進め、加賀能登国境の末森城を手もなく捻って陥れた。七尾城陥落の実に二日後のことである。まさに神がかり的軍略と評すべきであろう。
対する柴田勢は謙信の息が掛かった越前一向一揆残党にさんざん足を取られ行軍は遅々として進まず、そのうえ織田陣中の誰一人として、越軍の末森城進出どころか七尾城陥落すら知らないという有様だったという。それでも天下の大軍を引率する勝家の意気は軒昂であり遅れを取り戻そうと猛進するので、従軍していた羽柴筑前などが
「出陣してからひと月を越えました。能登の情勢は変化しておるやもしれません。一旦進軍を停めて、丹念に敵情を探るべきかと思いますが」
と進言しても、勝家は
「斥候は出しておる。遅れを取り戻すためには復命を待ってなどおれん。その間もどんどん進め」
と、軍を進めるになおも強行であった。
柴田勝家はもともと信長弟信行の付家老であった。今を遡ること二十一年前の弘治二年(一五五六)八月、勝家は信行擁立を企てて、信長に叛旗を翻したことがあった。稲生の戦いと呼ばれる内訌に敗れた勝家は処断を覚悟したが周囲のとりなしもあって刑一等減じられた。以降は信長に忠節を尽くして、なおも謀叛を企てた信行を見限り寧ろこれを信長に密告したり、永禄十一年の信長上洛戦に当たっては諸方を駆けずり回って平定戦を戦うなど、文字どおり身を粉にして立ち働いている。信長に楯突き躓いてから、徐々に信長の信頼を勝ち得ていった経緯があったというわけである。信長に刃を向けたことがある、という彼自身の過去の行状が、
「失敗は二度と許されない」
という強迫観念となっていたものであろうか。勝家は行軍遅延を取り戻そうと必死であった。
羽柴筑前が勧めるところは要するに
「情勢の変化を看破して臨機応変に対応すべし」
ということであったけれども、勝家は遅れを取り戻すことにのみ狂奔して、かかる慎重論に従う素振りもない。徒に進軍の歩速を速め、隊列を乱し、ほとんど烏合の衆と化している自軍の様相に危機感を抱いた羽柴は、軍議の席でいよいよ語気を強めた。
「このように強行軍を繰り返し陣を乱したまま進めば、敵襲に応じること能いませんぞ」
勝家はしかし、動じる様子もなく
「上杉方が討ち掛かって参ろうとも所詮は時間稼ぎの小勢であろう。返り討ちに討ち果たしつつ北上すればよろしい」
と、ろくに取り合わない。勝家には依然として七尾城陥落の事実が伝わっていなかったのである。よしんば伝わっていたとしても、新たに獲得した城の仕置に数日を要するのが世の常であった。七尾攻城戦を終えたばかりの越軍が、その僅か二日後には末森城を陥れるなど誰が想像し得たであろうか。行軍の停止を進言した羽柴筑前にしてからが、越軍本隊による本格的な襲撃までも予測してこれを建言したものではなかった。軍議は次第に感情に傾いていった。
「そこもとは敵情を探ってからなどと申すが、その実武勇日本一と喧伝される謙信に恐れを成したのであろう。したがってそのように接敵を先延ばしにしようと躍起になっているのであろう」
あまりにしつこく停止を求める羽柴筑前に対して、勝家が放ったひと言は彼を怒らせるに十分であった。
「左様。そのように喧伝される謙信と初めて干戈を交える以上、敵情も知らず、烏合の衆さながらの軍勢を以て遮二無二討ち掛かって勝てる道理があるはずもない。くたびれ果てた軍役衆を恃みに精々励まれよ。盲いた大将敵より怖い。勝家殿のためにある言葉です。それがしはここらで陣払い致す。御免」
羽柴筑前はそのように告げると、軍議の席に座する織田の諸将が
「陣払いなどと。軍規違犯でござるぞ」
「諸人一致団結しなければならぬ折に離陣など」
「死罪になるぞ」
と止め立てしたが、もとよりこれに従うつもりで陣払いを口にした羽柴筑前でもない。勝家は軍議の陣屋を去ろうという羽柴筑前を止め立てするどころかその背後から殊更に
「所詮百姓は百姓。いつまで経っても武士にはなれんものよ」
と聞こえよがしに放言して両者は決裂した。
慎重論者を排してなおも猛進する勝家が全軍に停止を命じたのは、謙信が加賀郡松任城に入城したとの報せを得たときであった。勝家は耳を疑った。
「謙信が松任城に入った? 七尾城を囲んでいるのは上杉方の誰か」
この問いに対して、あらかじめその方面に放っておいた斥候の報告は勝家の度肝を抜くに十分であった。
「七尾城は既に陥落し、上杉の掌中にあります」
勝家は平静を装うのに精一杯であった。軍規に違犯して無許可で陣を払った相手とはいえ、羽柴筑前の危惧が的中したからである。羽柴筑前が七尾城陥落と謙信の松任城入城を予見していたなどと言うつもりはない。ただ諸方で妨害を受け行軍が停滞した以上、少なくとも敵情を探索しつつ情勢の変化に即応して臨機応変な対応を採ることは当然検討しておかなければならないことであった。勝家は敵を目の前にしてようやくそのことに思い至ったのであるが、危機が迫っている以上決断は先延ばしにするわけにいかない。




