七尾城の戦い(三)
城内に籠もった領民は、ひとりふたりと不気味な病に倒れていった。それまで隣の衆と何気ない言葉を交わしていたと思うと、突如粥状の白濁した吐物を口から噴出してその場にばたりと倒れ込むのである。倒れた者の額に手をやると大変な熱であった。病者を惣構の前線に置いておくこともできず、元気な者はこれを担ぎ、渋る侍衆を拝み倒してなんとか二の丸へと運び込んだ。その数は日を追って増し、二の丸には枕を揃えてずらりと病者が並べられた。城外には越軍が不気味に包囲陣を組んで待ち構えている中でのことである。これら越軍がいつ寄せてくるかと思うと念の入った看病もままならず、病者のなかには遂に死者も出始めた。
「亡骸を荼毘に付す際は、糞便も火にかけよ」
侍衆の口を経由してそのように達せられたが、戦時下とはいえそのような挙は倫理的に憚られるものであって、徹底されることはなかった。そもそもこれより以前、糞尿処理が問題になり始めたころから、排泄物を火にかけて処分するという措置は領民の間で応急的に採られてはいたのである。しかし水分を多く含んだ糞便はそう簡単に燃えなかったし、病者が垂れ流した糞便は液状であって火中へ投じるにそぐわない代物であった。城内に流行した病の元凶が吐物や糞便にあると疑う者もあったが、このようであるのでその処理は思うに任せなかった。
このとき七尾城内で流行したのはコレラだといわれている。
七尾城本丸は二の丸以下を見舞う異常事態を察知して、城中の限られた者にしか本丸への出入りを許さない措置を採った。
そんな折のことである。越軍の大攻勢があった。
惣構の前線が崩されつつあると聞いて、本丸詰めの主立った侍衆も防戦に討って出た。身形の調った侍衆が惣構の木柵に拠って鉄炮を放っている隣で、石礫を投擲して共に防戦に当たっていた領民が、突然件の粥状の吐物を噴出した。畠山の鉄炮侍はその身に白濁した吐瀉物をモロに引っ被った。越軍の攻勢が止むと、この鉄炮侍は具足の袖や草摺に引っ掛けられた吐物を手で払いながら得物の鉄炮を担いで本丸へと引き上げていった。本丸に入ると、その鉄炮侍は新鮮な井戸水が湛えられた壺中にざぶりと手を突っ込んだ。吐瀉物を払った手を洗うためであった。
攻勢が止んだので、本丸の女中衆が、炊いた飯を握り始めた。飯を握る際、女中衆は鉄炮侍が手を突っ込んだ壺の水で、同じように手を洗った。その手で握られた飯が、本丸詰めの侍衆に振る舞われた。
旬日を経ずして本丸詰めの侍衆や女中衆の間でも酷い下痢と粥状吐瀉物の症状が流行し始めた。
或る女中は高熱と下痢、そして吐き気に襲われながらも、城主春王丸が
「腹が減った」
と求めたことから、重い体を引き摺って城内御料理の間に立ち、幼い主君の御膳を準備した。御料理の間の片隅に置かれた壺中の水で手を洗って、である。
春王丸が、供された御膳を残らず平らげたのを見届けると、人生最後の使命を終えたかのように、女中はばたりとその場に倒れ込んだ。女中は絶命していた。
このようなことがあってから間を置かず、城主春王丸もこの病に倒れた。周囲の懸命の看病にも関わらず、幼い城主は病死した。天正五年七月二十三日のことである。
城主が亡くなったことで求心力低下を恐れた抗戦派長続連は、一刻も早い事態打開を目論んで僧籍にあった弟連龍を安土城へと派遣した。信長の後詰を得るためであった。謙信が能登を掌中に治めることを嫌った信長は、その要請を得て柴田勝家を主将とする能登派遣軍を編成し、四万と号する大軍を七尾城救援のために派遣した。しかし援軍の進度は滞りがちであった。上方(織田勢)の接近を察知した謙信が、信長によって撃砕されたはずの越前一向一揆にその妨害を要請したのが遅延の要因であった。この間七尾城中にあって秘かに上杉に靡くことを目論んでいた遊佐続光は、九月中旬、謙信に対し内応する旨の書状を送った。包囲側と内応側で手順が詰められると、謙信は七尾城攻略は成ったも同然と喜んで有名な七言絶句
霜満軍営秋気清(霜は軍営に満ちて秋気清し)
数行過雁月三更(数行の過雁月三更)
越山併得能州景(越山併せ得たり能州の景)
遮莫家郷憶遠征(さもあらばあれ家郷遠征を憶うは)
を詠じたと伝えられる。
ともあれ遊佐続光は、謀叛に同心した温井景隆、三宅長盛兄弟と結託してその背後から長続連を斬って捨てたうえで、城門を開け放った。あらかじめ詰めた手順に則り越軍を城内に引き入れるためであった。城内に雪崩れ込んできた越軍と内応者によって抗戦派はことごとく斬り捨てられた。九月十五日、酸鼻を極めた七尾籠城戦は斯くして終焉を迎えたのであった。
謙信は連年関東討ち入りを繰り返しながら、東上野に自らの勢力を扶植した以上に領土拡幅の野心を抱かなかった。この一事を以て
「謙信は領土的野心を持たなかった」
などと評されることが現代でもあるが、これなど美談創作の類いであろう。全地球規模で寒冷化していた時期である。後にシュペーラー極小期と呼ばれる小氷河期が到来して、降雪量は現代と比較にならないほど多い時代であった。無論当代の人々はそのような気候変動など知る由もなかったのだが、ともあれ季節が到来すると雪は容赦なく上越国境を塞いだ。たとえ関東一帯に勢力を扶植し得たとしても、雪解けまでは本国から援兵を派遣することも出来ず越後勢は国内に逼塞を余儀なくされるのである。北条はその間隙を衝いて喪失した領土を奪還しただろうし、後詰の兵を送ることが出来なければ謙信の越後国内における威信の低下を招きかねない。謙信にとって関東に領土を拡幅することは諸刃の剣であった。彼が東上野を越えようとせず、他は在地領主の支配に任せたのはそのためだ。
そういった事情を背景とする関東討ち入りと比較すると、天正五年におこなわれた能登攻略戦は強く領土拡幅を意図していたことが分かる。謙信は、七尾城攻めと相前後して獲得した畠山義春の身柄を家中衆上条政繁に預け、後にこれを能登方面に配しているからである。関東方面では、東上野以外では見られない支配の在り方を採っていることからも、この地域における勢力の扶植を強く意図していたのであろう。
七尾落城を確信した謙信が有名な七言絶句を詠んだことは先に陳べた。これは江戸期に頼山陽が「日本外史」に著した逸話であって、謙信の真作かどうか不明であり細かく追及する無粋を働くつもりはない。ただ彼が七尾城を陥れたことについて
「このような堅城を陥れたのは老後の名誉である」
と記した書面が現存しており、七尾城を掌中に治めたことを喜んだことは事実である。
ともあれ謙信が能登を陥れたことによって、その勢力圏は織田信長と接するに至った。さながら竜虎相打つの様相を呈し、勝頼は漁夫の利を得ることを期待したに違いない。信長が敗退して衰えたならば東海或いは美濃に進出することは武田家として既定路線であったし、謙信が敗退すれば越後を併呑して信玄以来の北陸道西進を選ぶ道も拓けるというものであった。勝頼の期待どおり、謙信と信長は互いに引かれあうように干戈を交えることになるのである。