世にも不愉快な物語
学は落ち着いた口調で「あなた、ご亭主?」といって薄わらいを漏らした。勉は状況が分からずに「どういうことですか?」と学に聞き返した。
「彼女はあなたの妻かも知れませんが、僕の愛人です」
どっとわらいが沸き上がった。その中で、勉と小林だけが呆然としていた。小林にとっても珍ケースだったが、始まったばかりのパフォーマンスだから今後の対策は考えなければならなかった。蘇生対象を調べなかったのは施設側のミスだし、ほんの一分もあれば確認できたことだ。
「理解できません。僕と結婚する前に、あなたの恋人だったというんですか?」
「いえいえ、そうじゃありません。知り合ったのはあなたとの結婚後です」
「いずれにしても虚偽申告は困りますわ」
小林は顔を真っ赤にして、強い口調でいった。意識を取り戻した明日香は、黒いシーツを首のところまで引き上げ、二人の会話を空ろな眼差しで見つめていた。
「お目覚めよ」と誰かがいうと、勉は明日香の右手を握った。すると、学は反対側に回って左手を握る。明日香は薄わらいを浮かべて勉を見つめてから学のほうに顔を向け、もう勉を見ようとしなかった。
〝こいつら、同じわらい方をしやがる……〟
勉の顔はピンク色になって体も固まってしまった。
「夢を見ているの?」
「夢なんかじゃない」
学は明日香に接吻しようと屈んだとき、明日香の右手が勉の手を振り払ったので、勉はショックのあまり声も出せなかった。明日香と学は抱き合って、長すぎるキスが続いた。小刻みに震える明日香の背中を、勉は呆然と見つめた。感激して泣いている。愛人との再会に、だ。
「ご関係者の方には個室をご用意しております。ほかの方はラウンジのバーでおくつろぎください」と小林は気を取り戻していった。ストレッチャーは明日香を乗せたまま別室のほうへ動き出した。学は明日香とキスをしたまま、ストレッチャーと歩調を合わせた。勉はその後をとぼとぼと付いていった。
個室の扉が開くと、学が蔑むような眼差しを勉に向けた。
「二人にさせてくれませんかね」
「しかし、僕は彼女の亭主だぜ」
勉の声は震えていた。
「それは昔の話でしょう。くじに当たったのは僕だ」
「彼女のご要望を聞くのがいちばんですわ。私が中立の立場でお聞きします」と、後からやってきた小林が口を挟み、四人は一時的に部屋の中に入った。
「明日香様、ご気分はいかがですか?」
「これからですか?」と明日香は不安そうな眼差しで小林にたずねた。明日香の記憶は加工前に午睡したところで完全に途切れていた。
「そう、これからです。その前に、あなたのご主人と彼氏をお連れしました。重要なことをおたずねしたいんです。あなたが一○○年後に復活なさったとき、火星での連れ合いとしてどちらの方を選ばれます? いずれこのお二人も保存されることになりますから、あなたの横の席にどちらをお連れするか、ご要望をお聞きしたいんです」
「学さんでお願いします」
明日香は即答した。
「一時的な気の迷いじゃないんだろうね」
全身の血管がキュッと収縮して、紅潮していた勉の顔は蒼白になった。
「彼は白馬の騎士よ。だって貴族だもの」
そういって、明日香は勉を睨みつけた。明日香の鋭い眼差しは、「女房も救えない貧乏人!」といった感情に満ちていた。貴族という言葉が金持を意味するなら、勉は完全に負けたと思った。これ以上食い下がる意欲も失った。
「分かった、好きにしろ。僕は君とは違う旅に出るさ。そうだ、どこか遠い星。そこにはきっと、君以上の素敵な女性がいるだろう。それじゃあ君たちの幸せを祈って、僕は退散する」
部屋を出たとき、勉の目から涙があふれ出たが、すぐにわらいがこみ上げてきた。要するに良くある話だ。しかし愛人をつくっていたなんて驚きだった。「よほど俺に不満だったのだろう。ひょっとしたら、必死にパトロンを探していたのかもしれない……」と勉は思った。最悪の気分だった。
個室には大きなベッドが用意されていた。ピンキー状態を解凍した直後でも肉体が健康であることを示すために意図されたものだ。学と明日香は激しく愛し合った。まるでロミオとジュリエットのように初々しいセックスだった。長い愛の営みが終わった後、二人はしばらく語り合った。
「子爵様、あなたに見捨てられたと思ったわ」
「君を見捨てるわけにはいかないさ」
「私、すべての女に勝ったの?」
「そうだよ。僕は君の偉大さに気付いたんだ」
「もうピンキーにならなくていいの?」
「それどころか、僕たちは青春に戻って結婚するんだ」
二人は、再び抱き合って長いキスをした。学は明日香が助ける価値のある女であることを確認するために、ここに来たのだ。学がくじに当たるよう施設長に金をつかませたものの、そのまま二人が駆け落ちするには桁違いの袖の下が必要だった。そこで、ひとまず明日香を再石化させ、資金が調い次第、金と引き換えに石のまま搬出することにしたのだ。
〝嗚呼、なんて俺はケチい男だ!〟
学は幸せで涙する明日香を見つめながら、申し訳ない気持ちで一杯になった。チャンス到来なのに、白馬に引き上げ損ねちまったのだから……。
帰りがけ、勉は車内で酩酊してトイレで嘔吐し、ショートステイ・センター駅に途中下車してしまった。家に帰るまでに平常に戻す時間が欲しかったし、今日のことを息子夫婦に話す前に落ち着きを取り戻したかった。上りの列車から降りたのは勉一人だったが、ちょうど下り車線にも列車が入ってきて二〇〇人ほどが降りた。ほとんど二人連れか三人連れで、中には老人の顔つきをした者もいたが、六五歳以上はこの施設を利用できないことを勉は知っていた。出迎えたのはセンター長の小林とアンドロイドの案内嬢で、勉は思わず「アッ、さっきはどうも」といってしまった。小林はけげんな顔つきをしたが、すぐに理解できたようで、「ああ、火星移住ベースキャンプの小林ですね」といってニコリとわらい、「彼女はロボットでして、私は本物です」と続けた。
「そっくりですな……」
勉は呆然としながら呟いた。どちらが本物かは分からないが、ニヤリとして「残念ですが、六五歳以上の方は見学できません」という。
「そりゃ残念だ。息子に頼まれたものでね。親の意見を聞きたかったようです」と口からでまかせをいった。
「そうですか、それではどうぞ。こちらのお食事も火星組に負けないぐらい豪勢ですわ。でも、見学前にお酒は出ません」
「いいですよ。もう十分いただきましたから」
小林は手を差し伸べて勉と握手をし、二〇〇人の先頭に立って施設内に案内した。地下施設は火星ベースキャンプとほとんど変わらない造りになっていた。最初にホールでにぎやかな食事会が始まった。豪華な食事を目の前にしても、ショックから抜け切れていない勉は喉に通らなかった。
勉と同じ一人での見学は一〇人程度だ。二人連れは同性のカップルが多く、男女のカップルは少なかった。三人の場合は一人異性が入っている場合が多く、三人とも同性の場合は同性愛者に違いなかった。というのは、二人が一人の愛人を共有しているだろうからだ。いずれにしても、彼らのほとんどが金銭的に余裕のない独身者だった。
小林は施設の説明を始めた。ここは自ら率先して生命活動を休止する人たちのための施設だ。男同士でも、女同士でも、男女でも、親子でも、関係はどうでも良く、一八歳から六五歳までの誰でも入所可能だ。ショートステイだから、ピンキー期間は二年間。二年ずつ交代にストックされる。まだ実証試験段階だが、将来一〇〇万人収容できれば、二〇〇万人の活動人口を一〇〇万人に半減させることが可能になる。参加するメリットは報奨金だ。無事二年間の活動休止を終えたときに、出所金が支払われる。あと二年間は十分に生活できる金額だ。その金を使い果たした頃に、次なる休眠期間がやってくる。いわば貯蓄のようなもので、二年間寝ているうちに働かずして次の二年の生活費を貯めることができるというわけである。自分の体を定期預金にするようなものだ。
「しかし、たとえば僕の相棒が約束の日に来なかった場合は?」と誰かが尋ねた。
「そうしたケースはまずありませんね。約束違反の方には罰則として、配給切符が支給されないことになっています。お金もなく配給もストップされれば、飢死する以外ありませんものね。それに、相方が来なかった場合でも、お約束の日には目覚めるように決められています。もちろん二年間の報奨金も出ます。遊んで暮らしてお金がなくなりましたら、ほかの相方を見つけてまたいらしてください。二年間寝て、二年間遊んで暮らす。それとも、サスティナブルに苦しい生活を続けていかれるか。どちらがいいか、もうお分かりでしょう。意識がなく夢も見ない二年間は、ご当人にとっては一瞬の感覚でして、まったく苦しむことがありませんからね」
「一人での参加はできないんですか?」
一人組の勉が尋ねた。
「もちろん可能ですわ。でも、多くはありません。そのまま永遠に目覚めないのではないかと心配なんです。そんなことは決してないのですが、政府の方針はコロコロ変わると思っておられる方が多い。で、やっぱり信頼できる方とタッグを組まれることになります。ところで皆さん、ショートステイシステムにはもう一つ大きなメリットがあることをご存知ですか?」
誰も手を上げる者はいなかった。
「二年間履くのを忘れていた靴は新品ですか?」
「いいや、空気に触れて少しは劣化するでしょ」と誰かが答えた。
「でも、酸素のない宇宙空間ではどうでしょう」
「太陽風があるから劣化するでしょう」とほかの誰か。
「でも、ピンキーはまったく劣化しないのです。石になれば空気もシャットアウト、太陽の降り注がない場所に保管します。つまり、目覚めたときは二年の眠りに付くときと同じ状態です。時が完全に止まります。ということは、その間老化はなく、寿命を倍に引き伸ばすことができるのです。法律で若返りや長寿医療が禁止されている現在では、これが唯一の若返り治療というわけです」
「バカバカしい!」と勉が大きな声で反論した。
「どうせ七〇歳になれば抽選会が始まってピンキーにされちまうんだ。誰も長生きなんてしたいとは思わないさ」
「それは違いますわ。火星での優雅な生活を楽しむためには、肉体が若いに越したことはありませんからね」
「…………」
勉は返す言葉もなく、苦わらいした。
(つづく)