悩ましい選択
高校から俺の家までは意外と距離がある。徒歩で三十分というものだから、びっくりするほど遠いわけではない。ただし、なるべく早く帰ってこいという制約のもと鑑みれば、十分に遠いと考えられるだろう。その帰路を足早に進んでいく最中、俺は一人の青年と出会うことになる。
「やあ」
「…………えっと、どこかでお会いしましたっけ?」
唐突だった。
なりふり構わず無視するという手段も取るには取れたが、どうにも意識が集中してしまって返事をしてしまった。
返事を受け取った青年は首を横に振って否定の意味を表すや非常に浮ついた笑みを見せつつ近づいてくる。
なんだか嫌な予感がする。
俺の直感がこの場から逃げろと告げるが、どうしてか身動きができなかった。それが目の前の青年の歩行方法に理由があると気がついたときには、次の言葉が俺を襲っていた。
「いや、会うのは初めてだし、話をするのも初めてだ。知らないやつと話をするのもたまには良いものだな。そうは思わないか?」
「は、はあ……?」
絶妙に体を揺らして俺が逃げる方向を塞ぎつつ、ある程度答えられる内容で話を進める。これで俺は逃げられない。気がついているのに、強行出来ないのはすべて青年のバランスのとり方が問題であった。
一体何者なのか。何が目的か。
すぐにそれを思い浮かべるあたり俺の日常の変化が伺えて泣けてきてしまう。常に人を疑うような人間にだけはなりたくはなかったが、最近の俺の周りには疑わざるを得ない奴らが多すぎるのだ。
ともあれ、今は目の前の青年について考えることにしよう。といっても、俺は青年のことなんて何一つとして知りえないのだが。
「さて、話は手短に。どうやら、自分が逃げられないようにされているってこともわかっているみたいだしな」
「…………」
「おっと、警戒しなくていいぞ。どうせそんなのは無意味だしな」
何を言っているのか。いや、言いたいのだろうか。不敵な笑みが妙に背筋を震わせる。
青年はポケットから一枚の写真を取り出して俺に手渡してくる。それを受け取り、どのような写真なのかを確認するが、とっさに俺の両手が青年の胸ぐらを掴み上げた。
ぐはっと、息を吐き出した青年は未だなお不敵な笑みを浮かべつつ、その目には確かな勝利の光が灯されている。
「どうした、ヒーロー様?」
「てめぇ……この写真はどういう冗談だ?」
写真に映し出されていたのは麻里奈だった。
しかも、盗撮写真などではない。下着姿で目隠しをされて椅子に縛られている状態の麻里奈が写っていたのだ。裸で抱きまくらのように毎朝抱かれているから俺だけが知っている。麻里奈の特徴的なほくろを位置は本物だった。
つまり、写真に写っている麻里奈は本物だ。
どうしてそんな写真が、など。この際、どうでもいい話だ。問題はどこでこの写真が撮られたかだ。
「冗談? 冗談だって? かっはっはっは! それが冗談に見えるなら、お前さんの脳みそはお花畑だよ」
「るっせぇ!! 麻里奈はどこだ!!」
「教えると思うかい?」
ニヤニヤニヤニヤ。
薄気味悪い笑みが神経を逆なでする。胸ぐらを掴んだ手に力はこもる。怒りで拳が出そうになるが、それはどうにか抑えられた。
しかし、抑えていられるのにも限度というものがあるわけで。あと一言二言余計なことを言おうものなら、容赦なく俺の拳が青年の頬を貫かんばかりに飛んでいくだろう。それを予期してか。あるいは頃合いを見てか。
青年はもう一つ俺に対して意見する。
「おいおい。そう感情的になるなよ。短気は損気っていうだろ?」
「お前はもう喋るな。麻里奈は俺の力で探すことにするよ」
いらぬことで怒りが沸点を振り切ろうとして、とうとう俺の右拳が放たれようかというとき、青年の右手が上がる。そして、パチンとフィンガースナップが鳴り響いた。
それとほぼ同時に俺の背後のほうで耳をふさぎたくなるほどの轟音を発しながら幽かな地揺れとともに現れた。その正体はすぐに判明する。
黒い煙が一層立ち上る場所があった。俺もよく知る場所だ。
「…………まさか」
「保健室に設置しておいた爆弾を爆発させた。しかも爆発に巻き込まれた人が数十分後にきっかり死ぬように調整された爆弾をな」
「保健…………室……」
そこには颯人の義妹の双子と望月養護教諭がいたはずだ。何かの拍子に黒崎双子が目を覚まし、とんでもなく低い確率で全員が保健室を出ていなければ十中八九爆発に巻き込まれているだろう。
望月養護教諭は不老不死のため死なないとして、黒崎双子のほうは?
俺は確か、由美さんに黒崎双子の面倒を見てくれと頼まれて、それを了承したのではなかったか? これでもしも、怪我や死亡なんてことになった日には……。
いや。
いやしかしだ。
俺には麻里奈の誘拐という代えがたい問題があるんだ。知り合いとは言え、麻里奈より大切だとは言えない。ここは無視する。放って置く。もしかしたら誰かが助けているかもしれないという微弱な可能性にすべてを賭ける。
――――出来るわけがない。
少なくとも俺は、助けると言った相手には全力を尽くしたい。目の前のこいつの口ぶりでは数十分は持つらしい。ならば、走って五分ほどの距離で立ち往生しているわけにはいかないはずだ。
それに、麻里奈には俺よりも適役なやつが動いているはずだ。あいつの言葉が本当であれば、すぐにでも救い出してくれるだろう。
それならば、俺がこれからどうするかなどわかりきったことである。目の前の障害を放置し、俺は保健室においてきてしまった望月養護教諭と黒崎双子を救出しに行くしか無い。
そう思い至ったが吉日。俺の足はすぐに逆の方向へと駆け出そうとする。がしかし、その足を止めるように青年は言うのだ。
「一瞬の迷いの後に大切な人よりも他人を守るか。だけどいいのかい?」
「…………麻里奈は救い出せる。俺よりも優秀なやつが麻里奈には着いてるからな」
「雷龍神のことを言ってるなら諦めな。やつはお前さんの大切な人を助けることはできないさ」
「なに……?」
カンナカムイの事を知っているばかりか、強力な力を持つカンナカムイでは助けられないだと?
一体どういうことだ。いやそれよりも、この青年は一体……。
思うことはある。青年の言うとおりであれば、カンナカムイでは麻里奈を救うことはできないのだろう。今すぐにでも麻里奈を探し始めなければどうなるかわかったものではない。ただし、そうすると望月養護教諭たちを救うことはできない。
望月養護教諭たちを見捨てて麻里奈を救いに走るか。あるいはどうなるかわからない麻里奈を放って望月養護教諭たちの救助に向かうか。どっちも捨てられない。故に選べない。俺の足は完全に止まろうかとしていた。
時間はない。即決もできない。どちらかを選ばなければどちらも失う。
俺が救いたいのは……俺が救わなければならないのは……、一体どっちだ?
考えるまでもない。ああ、そうさ。考える余地なんて微塵もない。だって、俺という人間は、俺という生き様はとうの昔に決められたのだから。
止まりかけた足が再び動き出す。その足先はまっすぐ高校だった。
「おい。おいおいおい。待てよおい。見捨てるのか? 大切な人を放って、どうでもいい他人を救うのか!? ありえねぇ。ありえねぇだろうがよ、おい。お前、それでも男かよ!」
「麻里奈なら、きっとそういうさ。自分よりも、他人を助けろって。俺はそれを熟すだけ。俺が信じる正義の在り方を実行するだけだ」
それだけ言い残して俺は振り返らずに走り出した。
ただし、俺の胸に残った詰まりはどうにも晴れそうにはなかった。





