夢現
眠り姫が目覚めるまでにはもう少し時間がかかるそうで、その間にどこかへ行くことも出来ない俺は保健室で望月養護教諭と二人で暇な時間を過ごしていた。
俺としては久しぶりで、改装工事が終わってからは初めての登校だったので、校内を探索してみたい気持ちはあるが、双子をこのままにして望月養護教諭が不機嫌になるのは申し訳ないと思って未だに踏み切れずにいた。
そんな俺の意志を汲んでか知らずか、望月養護教諭は保健室内に常備してあったと思われるインスタントコーヒーをマグカップに淹れて差し出してきた。
「よかったらどうぞ」
「ど、どうも」
差し出されたコーヒーに口をつける。
インスタントというだけあって、万人が楽しめる平凡な旨さを味わいつつ、ふと気になったことが思い浮かんだ。しかし、それを聞いてもいいものかと悩み、答えは出ないままにとりあえず質問してみることにした。
「そう言えば、どうして俺の専属医になったんです?」
「……それを今聞く? まあ、いいけれど」
心底嫌そうな顔をしつつ仕方がないと手に持っていたマグカップを机に置くと、足を組んで俺の方へ向き直る。
そうして、どこから話したものかと数秒考えた後に、語り始めた。
「そうね。あなたは今、自分がどういう立場にいるかわかってる?」
「……?」
「あ、これはわかってなさそうな顔ね」
ええ、まあ。
なにせ、目が覚めてから体は動かないわ、リハビリだわ、何やらでそれどころじゃなかったもので。
実際問題、俺はこの一ヶ月激闘の日々を過ごしていた。目が覚めたらリハビリの毎日で、ろくに趣味と言えるものをやっていない。落ち着きを取り戻したと思いきや、今日のようによくわからないことに巻き込まれる、そんな日々だ。
だからこそ、今の俺がどういう立場かなど知る由もない。
だが、そこらへんをよく知っているような口ぶりの望月養護教諭がため息を交えながら話を続ける。
「今、この日本は世代交代の真っ最中で大忙し。もちろん、表の世界の話じゃないわよ?」
「えーっと。それってつまり、神崎家の話……?」
「そう。その日本の統括者である神崎家が先週正式に世代交代を発表したの。新しい統治者は誰だと思う?」
「…………まさか」
「そう、そのまさか」
そう言って、机の中からガサゴソと数枚の用紙を取り出すと、それを俺へと手渡す。
その用紙……というよりも書類には神崎家の世代交代についての記述が事細かに書かれていた。細かい字と、難しい語り口から書いてあることが理解しにくいが、ただ一点については理解が及んだ。
俺の目に飛び込んできた一際馴染みのある単語。それは神崎麻里奈という人名だった。
「麻里奈が……新しい当主?」
「本当に知らなかったの? 颯人は知ってるようなこと言ってたけれど」
「いや、知らなかったわけじゃなくて……ただ信じられなくて」
確かに、神崎家の総会で次の当主が麻里奈であるというようなことを颯人の口から聞いた記憶がある。そして、それに同意するような麻里奈の姿も。
だが、本当にそうなるなんて。いや、こんなにも速くに当主として表に出ることになるとは思わなかった。
そうだ。そうだった。世界を終わらせると豪語する仮面の男の襲来や、カオスとの戦いですっかり忘れていたが、神崎家の総会は元は神埼紅覇が当主をやめるという連絡会ではなかったか。
書類を眺めたままの俺に、望月養護教諭が人払いの魔術を込めた葉巻を吹かしながらつまらなそうに告げる。
「でも、よくやるわよね、あの子」
「何をですか?」
「クソほどめんどくさい引き継ぎをしながら、あなたの面倒を一ヶ月も見続けてたのよ? しかもあの子、この学校の元生徒会長さんでしょ? 表でも裏でも引き継ぎの嵐だったでしょうね」
「…………」
「別にあなたが悪いとか言うつもりは無いけれど、もしも私が彼女の立場だったら絶対に逃げ出してるわね」
でしょうね! そんな気がしますよ、ええ!
けれど、考えてみればそうだ。聞いた話だったが、麻里奈は俺を一ヶ月もの間、たった一人で俺の身の回りの面倒を見てくれたらしい。その間、生徒会長としての仕事もこなし、よもや家の事情まで抱え込んでいるとは知らなかった。
いや、知らなかったでは済まされないだろう。少し考えればわかったことだ。もう少し、麻里奈に目を向けていれば気がつけたはずなのだ。
望月養護教諭は、俺は悪くないと言ったが悪い悪くないの話ではない。俺はまだ、麻里奈にお礼もしていないし、今朝の話も返事をすっぽかしてきた。控えめに言っても最低な野郎だ。
今すぐにでも麻里奈のところへ走っていって今までのお礼を言わなくてはいけない。なのに、俺はどうして動けないでいるんだ……?
マグカップに半分以上残っているコーヒーに映った自分の顔を見ながら、俺は俺という人間を心底嫌になる。
押し黙った俺に、望月養護教諭はそっと呟いた。
「まあ、あなたがどう思うが私の知ったことではないけれど。自分を責めているのなら見当違いも甚だしいわ」
「でも……」
「もしも、彼女の行為にお礼の一つでもしていないのなら、確かにあなたはクズよ。それも相当なね。それでも、今のあなたは自分を責めてはいけない。それよりも先にしなくちゃいけないことがあるでしょう?」
「…………?」
「はあ…………これだから男は……」
やれやれと首を振ると、人差し指と中指では巻きを挟み、そのまま葉巻の先端で俺を指す。
そうして、呆れた様子でこういうのだ。
「彼女の好意に答えるのよ。ええ、そう。好意よ、こ・う・い! あなた、自分が愛されてるっていう自覚がある? 家族でもない、まして恋人でもない人を一ヶ月クソ忙しいにも関わらず面倒を見続ける辛さがあなたにわかる? 地獄よ地獄。終いには殺してやろうかって思うくらいには精神がすり減らされるの」
「お、おう……」
「それでもあの子はあなたの面倒を見続けた。どうしてか、あなたには理解できる?」
皆目検討もつきません。
「愛があるからよ」
頬を紅潮させているのは、きっと愛という言葉を口にするのが恥ずかしかったからだろう。
しかし。
しかしだ。
俺の中で、すべてが上手くハマったような感覚が起こる。麻里奈がどうして俺の面倒を見続けてくれたのか。どうして今朝、結婚という話し合いの中であんな顔をしたのか。
そして、俺が麻里奈をどう思っているのか。
よもや、望月養護教諭にすべての回答を与えられるとは思わなかった。思いもよらなかった。こういうことは当事者よりも第三者のほうがよくわかるというものは本当だったようだ。
俺はきっと…………。
こうしてはいられない。もう、この気持ちは誰にも止められない。
すぐにでも立ち上がって麻里奈のところへと走っていきたい。そういう気持ちを俺は一旦落ち着かせるために深呼吸をする。
そうして、望月養護教諭の顔を真っ直ぐに見つめるのだ。
「その顔は、やっとわかったっていう顔ね」
「ええ、まあ」
「ほんと、これだから男っていう人種は嫌いなのよ。男性は我慢することが嫌いなくせに女性には平気で我慢させる。同じ人間だっていう理解が、どこか足りてないのよね」
大きなため息をつきながら、口から白い煙を吐き出す。
その口ぶりだと昔、同じような目に遭ったみたいに聞こえるのは気のせいだろうか。いや、望月養護教諭も見た目は若いが、中身はとんでもない年齢だ。多分、そういう時期もあったに違いない。その相手とどうなったかは、どうにも聞く気にはならなかった。
ずいぶんと時間が経過しているような気がした。未だに双子は目を覚まさない。
思い至ったが吉日で、今すぐにでも走り出したい俺は、速く目を覚ましてくれと願うばかりだ。そんな忙しない俺を見て、望月養護教諭は言うのだ。
「行きなさいよ。あなたは永劫を生きる身でも、あの子は違うわ」
「……でも」
「まあ、この双子とは面識もあるし、颯人がこの場に居ないなら問題ないわ。ただし、用事を済ませたら速やかにここに戻ってきて。いい? すみやかによ? じゃない私、泣いちゃうから」
「あ、はい」
葉巻を一本吸い終ろうかというところで、本気で泣きそうになっている望月養護教諭を保健室においたまま、俺は保健室を出ようとする。
だけど、最後にもう一つ、まだ受け取っていない回答をもらうために振り返る。
「それで、どうして俺の専属医になったんですか?」
「…………あなたの専属医になれば、いずれ王族の仲間入りになるあなたの恩恵を思う存分に受け取れるでしょう?」
「はは……嘘が下手ですね」
うるさいわね、と。
手をひらひらと振って俺を追い出すようにそっぽを向いてしまった。
topic
・望月静香はいずれ日本の王族となる恭介に恩を売っておけば後々楽ができると考えている。





