事の顛末は左目の中に
気がつけば、俺は白い部屋の真ん中に用意された不潔を嫌いそうな真っ白な椅子に座っていた。前には少し大きめの机が用意されているが、半分が真っ黒に染め上げられていた。その先には触るのも憚れる黒い椅子が用意されている。
瞬時にここが現実でないことを悟る。タナトスと初めて会ったときの感覚を知らなければ理解すら出来なかった。言うなれば、魂だけの状態に近いのだ。
ということは、だ。
俺は死んでしまったのだろうか……?
ゾクリと、背筋が凍るような悪寒に苛まれたが、それが恐怖という感情だと解る頃には、もう意識は別に向けられていた。
「……やあ」
どこからともなく現れて、軽快な挨拶をかましたのは、やはり燕尾服を着込んだやつだった。燕尾服が奴らのチームスーツなのだろう。終末を願う奴らとよく似た姿のその者は、ペストマスクをつけていた。
おそらく。
これは直感にも似た予想だが、この軽快な話し方とどことなく感じたことのある雰囲気から察するに、タナトスの爺さん――カオスなのではないだろうか?
念の為、いつでも戦えるように準備だけはした。しかし、それを強張っただけだと勘違いしている燕尾服の者は両手を上げて戦意がないことを示す。
「もう私の正体に気がついたようだね。やはり聡い子だ。いや、やはりあの子が選んだ子だと言ったほうがいいのだろうか?」
「…………あの子?」
最初、カオスが言っている人はタナトスのことだと思った。というよりも、カオスを知っているやつがタナトスだけだった気がする。
だが、予想は見事に外れてしまう。
「クロエさ」
「…………………は?」
クロエ。確かに今、カオスはクロエの名前を出した。
揺さぶりか? 仲間割れを狙っているのだろうか? 確かに効果は覿面だよ。目下、混乱中だ。
ペストマスクで表情が読み取れないからか。今の言葉が嘘なのか、真なのか。あるいは他に意味が込められているのか全くわからない。わからないから、余計に混乱してしまう。
疑惑で視線が細くなる俺に、燕尾服の者は続けて語る。
「お察しの通り、私はつい数分前に君に倒されたカオスというものだ。そして、クロエ――彼女は私と契約した魔女でもある」
「……けい……やく……?」
「そう。契約だ。君が毎晩イチャコラしているあの子と私は一つの大願を持って契約した」
誰がイチャコラしてるって? 待て、そうじゃない。
やっぱり神様でも親族に似るものなのか。どこかタナトスが言いそうなことを言いつつ、カオスはとんでもないことを口走る。
クロエがカオスと契約していた。カオスは世界を終わらせようとした神だと言うのに。
なぜどうしてが混在する思考を読み取ったようで、カオスが事の顛末を話そうとする。どうも話が長くなりそうで、カオスは黒い椅子に座ると、少し息を吐いてから口を開き始めた。
「私はね、御門恭介くん。誰も苦しまない世界を望んだんだよ。貧困で苦しむ人。暴力で苦しむ人。人間関係で苦しむ人。優劣で苦しむ人。そして、身に余る力を持つがゆえに苦しむ人。
それらの苦しみを取り除くことは出来ないか。生きとし生けるすべての生命が平等に、あるいは幸せになることはできないだろうかと。
だが、それは幻想だ。如何に思考を巡らせようが。如何に環境を変えようが。人には意志というものがあって、意志があるからこそ人は苦しむのだから」
一息。
「教えてくれたまえ、御門恭介くん。この世界は、どこが正しいんだい?」
どこが間違っている、という質問であればあるいは答えは簡単だったかもしれない。けれど、どこが正しいのかと聞かれると回答に困る。というのも、俺は別にこの世界が正しいだなんて微塵も思っちゃいない。
確かに、世界は間違っているのだろう。努力を重ねた麻里奈が不幸になるのはおかしいし。生きるだけで迫害されるクロエは見ていられない。愛すべき人を奪っていく世界なんてどこも正しくはないだろう。
であれば、世界を終わらせると宣うコイツらの言い分はやっぱり正しいのかもしれない。だって、この世界は間違っているのだから。
しかし。
そうであったとしても、やっぱり俺はコイツらに賛同は出来ない。どれほど世界が間違っていようが、根本的には間違っていない。人間を生み出したという根本的な世界の歴史だけは、絶対に間違ってはいなかった。
少し考えて、やっぱり正しいところは出てこない。だから、俺からの回答はこうだった。
「何も正しくなんかない」
「では、君がこの世界を救う理由は? 世界の危機に天災に立ち向かう、その意味は?」
「俺は別に世界を救ったつもりはないよ。ただ、結果的にそうなっちまったってだけだろ。それに世界を救ったって言うなら、今回は颯人が適任だろ?」
「………………あぁ。やっぱり君なのか。神々が選定し、人類が認め、世界がその存在に恐怖する。《常勝の化け物》に敗北はなく、ただの一度として敗走などせず、ただ目前の悪を平等に破壊していく。君はそうやって、世界の歯車を安定させる潤滑油として生きていくのか」
表情は見えないが、きっと哀れんでいるのだろう。そんな哀れみなどいらないが、そう言われるとなんだか俺の生き方がそんな気がしてならない。
ただ、一つだけ訂正しなければならない。
「別に負けたことがないわけじゃない。常勝なんて物々しい名前なんていらないんだよ」
「というと?」
「俺はただ、手が届く範囲で、目が届く範囲で。友達に、仲間に、家族に幸せになってもらいたいだけなんだ。だから俺は世界を救わないし、不特定多数の誰かを救うことは絶対にしない。それが出来るだけの力があるとも思えない」
言い切った最後に、カオスが絶句したようで言葉が数秒返ってこなかった。やがて、全てを飲み込んだカオスが口を開く。
「君になら安心してクロエを任せられそうだ。長い付き合いだが、彼女を家族だと言ってくれたのは君が初めてだったよ」
「いや……まあ、家族みたいなものだけどさ。きっと、アンタが言ってるような家族じゃないぞ?」
「なぁに。すぐに彼女の良さに気がついて嫁にもらいたくなるさ」
「親ばかかよ……」
ふふんと、鼻を鳴らして我が子を可愛がる父親のような言い方でカオスは言っていた。多分、カオスにとってクロエは娘みたいなものなのだろう。二人の繋がりについてまだ引っかかるところがあるので、それについて言及してみることにした。
「ところでなんでクロエはアンタのことを知ってるはずなのに何も言わなかったんだ?」
「知っているからこそ何も言わなかったのだろうさ。彼女は私と違って世界を終わらせようとはしなかったが、私のやり方を全否定していたわけではない。むしろ、それこそが契約内容でもある」
「その契約ってのを教えてもらってもいいか?」
「もちろん。端的に言えば、私と彼女は世界を良くしようとしていた。ただやり方が正反対でね。私が世界を終わらせてからもう一度作り変えようとするのに対し、彼女は現状を変えて良くしようと試みた。だが、相反する作業はお互いがお互いを邪魔する」
だから。
「彼女が失敗した後、私が目覚めて世界を終わらせる。君が彼女を救った瞬間に、第二プランである私が目覚めたというわけさ」
ということは、クロエは自分を殺すことで世界をよくしようとしていたわけか? そこまで自分を卑下していたのか……いや、違うのか。
きっと、クロエは自分を魔王のように仕立て上げて、究極の悪を演じることによって世界の憎悪を自分に集中させ、世界を一致団結させようとしたのだろう。多分、その矢先に全てを知っているであろう颯人に封印されたのだ。
出鼻を挫かれたクロエは、準備もままならない間に逃げ続ける生活を強いられたわけだ。
「それに、私が現れたと知ってから、彼女は一切口出ししていないだろう?」
確かに。戦場にクロエの姿はあったが、口を出さないだけでなく、存在すら消していたような気がする。それも全ては見定めるためだったのか?
さすがは何百年も生きているだけはある。自分とそっくりの存在と姉妹喧嘩しているだけの子供ではないのだ。でも、出来るなら知り合いなら知り合いだって言ってもらいたいものだ。まあ、言ってくれたからと言って真心を込められるほど余裕な相手では無かったが。
伝えるべきことは伝えたと、カオスは席を立つ。
「どこへ行くんだ?」
「どこにも行きはしないさ。私は君の中に居続けるつもりだが?」
「……はい?」
「おや、気がついていないのかい? 私は終末だ。そうあるように演じた。そして、君の左目は終末を蒐集する。であるならば、私が君の中にいるのも当然だと思うけれどね。というよりも、そうでなければ瀕死の私は消えて無くなり、ここで君と話をしている時間などないわけだけれど」
そうして、カオスは姿を消す。
残された俺は呆然と椅子に座ったままになっていたが、一向に現実で目が醒めない。いや本当に。すぐにでもクロエにこのことを話してやりたいのだが、それが出来ない。
…………待て、マジで目が覚めないんだが?
カオスがいなくなったことにより、話し相手もいなくなり、ただただ暇な時間を気が遠くなるほど待ち続けてようやく、俺は現実へと戻ることになるのだが……。





