真実
白く暗い光のような闇の中を霧散しそうな意識だけが揺蕩うむず痒い感触だけがある。思考は定まらない。まるで自分が何億人もいるかのような感じだ。ただ1つだけ……そんな意識の中でも1つだけ確かなことがある。何億人もの俺がたった一つだけ意思を1つにするものがある。
――俺は敗北した。
何に、ではない。ただ歴として心に刻まれた棘のような後悔が、魂を蝕むように深く深く突き刺さっているのだ。それを言葉にしたのが“敗北”だった。
溶けていく。とろけていく。決して混ざり合うことのない数多の魂が、水と油を振り混ぜたかのように一瞬混ざり合おうとする。反発するように拒絶反応を示して、再び1つの魂に戻ろうと試みるが1度とろけた魂は同じ形には戻れない。
そんな体験をどれほどしただろう。魂はすり減り、意識は遥か彼岸の末へと飛んでいく。
ああ、これが死か。そう結論を出すまでに、俺の魂はおおよそ全てを無に還していた。
「そのまま消え去るのか――情けない」
意識と呼べるものがあるのかないのかも曖昧になりかけているところに声が聞こえた。俺の声だ。いいや、俺は話していない。なら、これは誰の声だ。俺である。そういう気がする。
混濁する意識たちが、一斉に思い浮かべる。どれが今の俺の意識なのか分別がつかないために、俺であり俺でない俺の意識の思考が混ざり合い、さらなる混沌を生み出している。
意識の反復。思考の混雑。魂の著しい摩耗。それらが合わさって、とうとう俺を俺たらしめる何かが消え去ろうとしていた。
「消えろ」
たった一言。それだけで、俺であり俺でないものたちが消え去った。澄み渡る意識と静かな思考が少しずつ蘇ってくる。しかし、半分程度回復するのに大分待たせてしまったようだ。
自己観察の末、肉体がないことはわかった。わからないのはここがどこなのか。俺はどうしてこんなところにいるのか。先ほどの現象はなんなのか。
そして、この場に幽王がどうして現れたのか。
「お前……」
「目覚めるのが遅いんじゃないか? それで俺から世界を救おうというなんてな」
「どうしてお前がここにいる。そもそもここはなんだ。どうして俺は――」
「覚えてないのか……あるいは忘れたいのか。どちらにせよ、お前には選択権がある。魂の導きのままに消え去るか。その魂を捨て去ってもう1度立ち上がるか」
暗黒の燕尾服。漆黒の仮面。右目には虹の炎が垂れ流され、その存在は誇張される。俺の最大の敵であり、全てを興した俺自身が目の前に立っていた。
だが、身構えることはない。なぜなら幽王の体には何重もの鎖がまとわりついており、その先には何億人もの魂が鎖を引いている。その魂の正体は俺――幽王に殺された何億もの世界に住んでいた俺の魂たちだった。
幽王は捕縛されている。この空間において幽王に自由は存在しないのだ。なのに、幽王は涼しい顔をしている。そんな気がする。こんな場面だというのにこいつはどうとでもなるといったふうにしているのだ。
「選択権……俺に選ばせるのか」
「選ばせる……少し違うな。すまない、言葉のあやだ。お前に権利はない。お前には義務がある。生かすか、殺すかの選択の義務が」
何を……とは言わなかった。思い出してきたのだ。ここが何で、俺がどうしてここに来てしまったのかを。
ここは左目の中。終末論を蒐集し続けた記憶空間だ。そして、この御門恭介たちは終末世界にて観測された俺自身。俺は俺を救おうとした麻里奈に敗北した。体を砕かれ、精神を蝕まれ、最後は塵すら残さずに消え去った。
幸いと言えるのは終末論として世界を破壊する条件が揃った俺の意識が左目に蒐集されていたことだろう。おかげで完全に消え去ることなく、どうにか意識だけが生きている状態にとどまれた。
「1つ聞かせてくれ」
「あまり時間はないぞ」
「どうして俺なんだ」
「……簡単だ」
幽王の全身を縛る鎖が張る。燕尾服が破れ始める。それでもさらに進もうとする幽王の、次は腕から血液のような煙が吹き出した。それが魂を形成する本当に大切なものであると直感的に察するが、それを流しながら幽王は何億もの俺を引きずって近寄ってくる。
仮面の下の表情はわからない。声色は少しも変化していない。息遣いも至って正常だ。だのに、俺は幽王を恐ろしく思った。
三日月のように釣り上がった笑みを浮かべているふうに見える。やがて俺の目の数センチ先に漆黒の仮面が近づき、暗漆黒が渦巻いたような右目の虹彩が俺を飲み込むように覗き込んでいた。
「これはやつが始めて、俺が終わらせるべき物語なんだから」
ああ、やっぱりそうなのか。
幽王を怖いと思うのは、俺の弱さのせいじゃない。俺もそう思う瞬間があるからだ。いつか、幽王のようになってしまうのではないかと想ってしまったからだ。俺が本気を出せば、世界なんて本当に脆く、簡単に砕くことができてしまう。だから俺は、幽王にならないために幽王に恐怖しなければならない。
幽王は死んでいない。カオスと同じだ。肉体を失っただけで、俺の左目の中で生き続けるのだろう。さながらここは左目の内の幽王の終末世界の情景だ。幽王はあらゆる終末を目の当たりにし、それを踏み越えてきた。大切なものをひとつひとつ溢れ落としていきながら、一歩一歩進んでいったのだ。
「お前は後悔したんだな。大切な人を失い続けて、世界を救い続けた人生を。だからお前は世界を渡り、過去へ戻り、こんな無謀な画策をした。全てはお前の大切な人を救うために」
「……そうだ。あらゆる終末を超えた俺は、正真正銘の最強の存在だ。なら、俺を超える俺を作り出せば、望まずとも俺の大切だった者たちは救われるだろう。たとえ、幽王のことなど覚えていなくとも。そのためなら、別の世界の俺の――過去の俺の大切な人なんてどうにでもなればいい。結局は救われる。救ってみせる。幽王でない御門恭介が幽王の大切な者たちごと、全てを救いあげてくれる。俺はそう――思っていた」
思っていた。では今はどのように思っているのだろう。
何か幽王にとってイレギュラーな事態が起こっているのか。いや、そもそも順当に物事が進んでいるのなら、こうして俺の目の前に現れることすらなかったはずだ。どうして俺の前に現れた。何が幽王にそうさせた。
思い当たる節は、おおよそ1つしかなかった。
「……麻里奈か?」
確信はない。幽王の計画には明確な敵が描かれていなかった。もしかしたら“終焉の魔女王”はクロエがなっていたかもしれないし、高校の同級生がそうなっていたかもしれない。皮は誰でもいいのだ。それが俺の大切な人であれば誰だっていい。それを踏み越えて、俺は俺を取り巻くありとあらゆるものを救う英雄になる。それこそが幽王とカインの机上の空論だ。
しかし、この世界には黒崎颯人が生み出した異分子が存在する。神崎麻里奈だ。颯人曰く、麻里奈はこの世界にしか存在しない。なぜなら、神崎美咲を産んだ時点で麻里奈を産むはずの母親が死亡してしまうためだ。今回はたまたま麻里奈の母親が生きていた。そして、奇跡的にも颯人が子供を産ませるように促した。
それは本当に奇跡だったのか。
「麻里奈はいったいなんなんだ。幽王にとって――御門恭介にとってどんな存在なんだ‼︎」
「約束だ。あるいは手綱とも言える。彼女は御門恭介が御門恭介という人間性から外れる未来を歩き始めた場合にのみ生まれる条件付きの存在だ。そして、その存在理由は御門恭介に尽くすこと。御門恭介が御門恭介であり続けるために、世界を観測する外なる神が遣わした文字通り御門恭介にとっての天使だ」
一息。
幽王を縛っていた鎖が緩む。見れば別の世界の俺が1人、また1人と消えていく。世界は徐々に冷たさを忘れていき、ほのかな安らぎを思い出す。
少しずつ自由を手に入れていく幽王は知り得る真実を続ける。
「いついかなる時も俺たちを認め背中を押し、潰れそうな時はその優しさを持って安寧をもたらす。朗らかだが厳しさを持ち、直接的にも間接的にもそばにある。御門恭介が有り余る力を破壊衝動に変えないために存在する御門恭介用更生装置――それが彼女の本質であり、彼女すら知らない正体だ」
「…………」
「言葉もないか。そうだな、俺もそうだった。この真実は俺には辛辣すぎる」
完全な自由を取り戻した幽王は自ら仮面を外した。漆黒の仮面は粒子となって消え去り、仮面の下にある本当の顔が顕になる。こけた頬、厚いクマ、左目の虹彩は白くなっており、右目はなおも虹の炎を放出している。
これが俺か。後悔に後悔を積み重ねて、失う恐怖すら忘れてしまった俺なのか。これが生きていると言えるのか。
生きた屍とはきっとこいつのことを言うのだろう。動く屍は手を差し出す。そうして得ようというのだ。初めの問いの答えを。
「真実は告げた。時間もいい頃合いだろう。お前は十分に俺の予想を超えてきた。アクシデントもあった。イレギュラーも存在する。だが、概ね計画通りだ。最後はお前から答えを得るだけ。生きるか死ぬか。救うか失うか。さあ、答えろ。御門恭介は何を得て、何を失えばいい?」
「俺は――」
正直な話をすると、俺の出した結論で幽王が満足を得られる保証はなかった。幽王は俺自身でありながら俺とは全く別の考えを持っていて、同じ人間であるはずなのに全てが違う人間のようだったから。それでも幽王が答えを得たいというのであれば、俺は俺なりの答えを出すしかない。
そうして告げられた答えを持って、仮面を脱いだ幽王は微笑んだ。まるで初めからその答えを望んでいたかのようにしたたかで確信をもった表情だ。
世界が崩れる。亀裂は大きくなっていく。その崩壊に巻き込まれるように俺の意識は現世へと落とされた。そこで待ち受ける最後の地獄と対峙するために………………。





