最後の英雄譚
右手を前へ。口は開かず、ゾンビに向けて差し出した。するとどうだろう。歩く死人は砂へ――あるいは灰へと還っていく。
依然として無表情の麻里奈だったが、ほんの少しだけたじろぐように足を引く。おそらく何が起きたのか理解できていないと言ったふうだ。
もちろん理解など出来はしないだろう。これまで必死に足掻いていた男が、最も簡単に終末を消し去ってしまったのだから。
〈演算終了――対象“千の愚兵”を無力化完了〉
左目に映し出される文字列に感情もなく把握すると、俺は歩き出す。目的地は決まっている。漂う少女の下だ。
後ずさる。見るからに明らかに。彼女は俺に恐怖を見せた。これまではっきりとした感情は見せなかったにも関わらずだ。それだけでも価値がある。だが、俺はそれでは止まれない。
歩みは進む。左目に映し出される文字列が変わっていくをくっきりと文字通り目に焼き付けながら。
〈注意――マスターの思考領域の拡大を認識。予想を大幅に超え、なおも拡大中。このままでは脳に深刻な影響が現れる可能性があります〉
これらの言葉にいったいどれだけの意味があるのかはわからない。脳に深刻な影響とはどれほどのものか、予想することすらできやしない。けれど、これだけは言える。そうしなければならない理由が今、この瞬間にあるんだ、と。
そうでなければ辿り着けない境地が存在するんだ。そうまでする必要が俺にはあるんだ。
麻里奈を止めなければならない。いいや、あれが本当に麻里奈なのかすら怪しいが、それでもその格好で……俺の理想像でこれ以上の横暴は許せない。
「な……ぜ……?」
麻里奈の口からあからさまに恐怖に塗られた声が発せられる。彼女が俺を見て恐怖している。
彼女の表情はもはや無表情ではない。汗――一雫の汗が流れてる。目は大きく開かれ、体や表情が緊張している。震える声は、目に映る俺が信じられないという感情の現れだろう。
見た目の変化はあった。あらゆる武装が全て解除されてしまっているのだ。今の俺は武装放棄したただの一般人そのものだ。
「解けたんだ――俺は世界矛盾のしがらみを解読した。俺にはもう、後悔を先にすることは不可能だ」
世界矛盾の解読。完全解消のさらに先の段階。これは死を願う不老不死者が願っても得られない称号にして、呪いの消失に他ならない。あるいは、能力の抹消とも言える。
俺は自らの世界矛盾である能力を手放した。武装が全て解除されてしまった。元々、俺の世界矛盾は俺の往生際の悪さ――もしくは優柔不断な性格が、死に際の状態で自分自身の生死を他人に決めてもらおうとしてしまったことによって起こった。それがタナトス――カインの計画のうちかどうかはわからない。
しかし、俺にはまだ戦う術がある。自らの世界矛盾を放棄しようと、永遠の命を手放そうとも、俺にはまだ化け物たる所以が身に宿っている。紛れもなく、現状を作り出したカイン――親友の神様の手によって渡された三種の神器が。
「俺には過ぎたものだった。世界矛盾や永遠の命なんて、一般人として生きようとしていた俺には手に余るものだったんだ。だから手放した。心配するな、諦めたわけじゃないぞ? この世界は終わらせない。他でもない君の手では絶対に。そのために、俺は永遠の命だって捨ててやるさ」
思考領域が拡大した理由は二つ。一つは世界矛盾の消失による物理的な余白の増加によるもの。今まで幽王の言うとおり、俺は左目を最大限に扱えてはいなかった。様々な限界を突破したはずの左目でさえもそう言われたのには理由があるはずだ。初めは俺の不甲斐なさが原因かと思っていたが、前に思考領域がどうのと言われたことを思い出して、このままではいくら世界を繰り返したところで結果に大した変化は訪れないと踏んで一世一代の賭けをしてみようと考えたのだ。かなりの賭けではあったが、予想通りに進んで安心している。
二つ目は手数が減ったことにより、考えることを少なくしたことだ。俺が頭が良くないから、戦いのほとんどを左目に計算させている。だが、その左目も俺の脳や体力、そして手段の全てをもって計算をしている。手数が多ければそれだけ計算量は莫大なものへと変わり、その計算量こそが俺の思考領域を知らずのうちに減らしていたらしい。
俺の賭けは思わぬ副産物を置いて大勝した。あとは、最後の賭けに気合を乗せるだけだ。
「どうせ、最後の戦いだ。脳みそが爆発しようが、この戦いが終わるまで保てばいい。やれるよな、救済論」
〈イエス、マスター〉
〈プロトコル再構築――完了〉
〈勝率≒0から5へ上昇〉
「それでも5パーセントか……厳しい戦いになりそうだな」
〈推奨作戦:ガンガン行こうぜ〉
本来の能力を扱えるようになって嬉しいのか、救済論が茶化してくる。そんな場合ではないだろうに、あるいは茶化したくなるほど劣勢なのかもしれない。それでも構わない。勝率がほぼ0から5パーセントまで上昇したと言うのなら、俺にとってそれはほとんど勝てるという意味に他ならないのだから。
見据えるは幾度となく打ち砕かれた障壁――終焉の魔女王と成り果ててしまった憧れの少女。対する俺は、自らの力を失いながらもされど力を増幅させる。
左目の救済論は、能力こそ高く終末論を武装として使用できるが、反面緩和されたとはいえ代償――主に脳への圧力が強く、先刻まで救済論をフル稼働で使用するには世界矛盾の副産物である超回復を利用しなけらば不可能だった。だが、脳の思考領域の危険領域までの拡大とおそらくはカインの因子の覚醒により、そのデメリットは無くなってしまった。
〈“アンサーズブック”より、対象“終焉の魔女王”の類推データを検索――ヒット数1件〉
〈比較論文が存在しないため、妥当性の確認不可能…………検索ワード“存在し得ない子”“未来を否定する者”“未来を託した者”――ヒット数5件〉
〈論文の内的妥当性を検討――4件通過〉
〈論文の外的妥当性を検討――2件通過〉
〈現状において最もマスターの意思と相同性を持つ論文を抽出――全1件が該当〉
〈ノア=カレイドボロスおよび御門恭介が作り上げた論述“空想における理想論の具現化”を実行しますか?〉
答えはもちろん、イエスだ。
ここで言う御門恭介は、幽王のことだろう。だからこれは、この選択肢は紛れもなく幽王が望んだものだ。
それを俺が選択すると知って、きっと必要になるだろうと練り上げたのだ。何億回と思考し続けた机上の空論を、いつかの自分が成し遂げるだろうと信じて。
「…………!」
麻里奈の表情がまた動いた。今度は驚きだ。ずっと目の前にいた俺を驚愕しているのだ。
それもそのはずだ。何せ今の俺は、数秒前の俺ではない。まだ幼さが滲む体はしっかり大人と呼べるまでに成長し、7冊の金包装の本を遊ばせ、7枚組の純白の翼と純銀の龍翼を生やし、乳白色の龍鱗の軽鎧を身に纏い、頭には錆びた王冠をだらしなく被っている。さらには、左目からは虹色の炎が揺蕩う。
かつて少女が憧れた理想像。そして、俺が憧れた少女の目標の姿。これこそがカインと幽王が作りたかった机上の空論“最先端の英雄譚”――あるいは最後の英雄譚“常勝の英雄”だ。





